「かくあるべし」に抗する判断とそれができる夫婦の関係

政府が導入しようとして問題になった「女性手帳」。女性の結婚、妊娠、子育て適齢期を意識させるよう提案されたが、「なぜ女性だけ」「人に管理される事柄ではない」と反発の声があがり頓挫することになった。

結婚、出産だけでなく、ワークスタイル、家族のあり方も多様化の一途をたどり、過去共有されてきた「○○かくあるべし」といったソフトロー(明文化されない共通の理想)は次第に通じなくなってきている。

第3巻で完結を迎えた米田達郎の『リーチマン』(講談社)は、ワークスタイルや家族形態の多様化という重いテーマを描きながらも痛快で心温まる作品である。主人公、達郎(英訳:リーチマン)はフィギュアの造形師になるべく会社を辞めた専業主夫。そんな達郎を支えるのは百貨店勤務で竹を割ったような性格の妻・トモエだ。

妻が稼ぎ夫を養うといった夫婦形態については様々な意見があるだろう。しかし、私がここで提出したいのは「男女分業かくあるべし」という議論ではない。反対に「かくあるべし」に抗する判断とそれができる関係についてだ。

例えば2人の結婚。会社を辞め国民健康保険料が払えない達郎。激痛の虫歯を抱えながらも歯医者に行くこともできない。そんな達郎の告白に、トモエは「ほんなら…、結婚するか」と応える。

世間で共有されてきたソフトローに照らせば、これはあまりに逸脱性(アノマリー)に富みすぎている。本来なら結婚のような人生における重大な判断はもっと熟考し、周囲に相談したうえで下すべきなのではないかと誰もが思うだろう。

達郎が会社を辞める際も、本来なら実績も計画も無い中で夢を追うのはリスクが高い。案の定、主夫になった後も彼の造形師としての評価は上がらず、苦悶の日々が続く。

だが、2人のアノマリーな判断が必ずしも読者をあきれさせるとは限らない。ソフトローに基づく「夫婦の姿」や「男女分業の姿」とはかけ離れていたとしても、この2人を見るとなぜか共感し、信頼感に心打たれる。

人間とロボットやコンピュータとの違いとは何だろうか。それは「感覚に基づいたダイナミックな判断ができること」だといわれている。もし、コンピュータが前述の結婚や退職に対して、何がより的確な判断かを求められたとしたらどう応えるだろうか――答えは明白だ。

このダイナミックな判断が生み出される原因は人間独特の「身体性」だという。一般的に、脳は身体を統括しており、身体は環境に対してセンサーとアクチュエータの働きをするにすぎないと考えられている。しかし、脳は自らが効率的に判断できるように情報を簡略(言語)化し処理しているに過ぎず、決してすべての情報を満遍なく処理し判断しているのではないという。

一方、身体は環境から膨大な情報を受け止めている。そしてそれは経験として身体に刻み込まれている。雰囲気やノリの察知、矛盾を孕む判断というのはそうした身体に残された情報をもとに行われるというのだ。

こうしたことは以前より指摘されてきた。坂口安吾がいう「われわれの生活は考えること、すなわち精神が主であるから、常に肉体を裏切り肉体を軽蔑することに馴れているが、精神はまた肉体に常に裏切られつつあることを忘れるべきではない」(『恋愛論』)とはまさに身体に基づく判断そのものだ。ただ安吾の時代にはマイノリティーだったソフトローからの感覚的な逸脱は今、決してそうとは言えない状況へと変わってきている。

以前は結婚も仕事もソフトローによる「あるべき姿」と照らし合わせ整合性をとることができた。

それはいわば、脳が処理可能な知識を基に下した距離感である。しかし物語の中で達郎やトモエが行う判断は「損してもやるべき」や「この人なら大丈夫」という感覚を重視して下される。

作中、トモエが帰宅すると「ただいま○○○」「おかえり○○○」と駄洒落で出迎える特徴的なシーンが、幾度となく展開される。これは周囲から見ればまったく意味を持たない遊戯でしかない。

しかし、夫婦にとってはお互いの状態を確認しあうために欠かせない約束事だ。のしかかるソフトローに抗する2人の小さな秘密というと大げさだろうか。

『リーチマン』は生活の多様化の中で懸命に生きる夫婦を通じ、他人に押し付けられるのではなく、自らがスタイルを作り上げていく健気さを実感させてくれる応援歌のような作品だ。私たちはソフトローに屈しない彼らの姿に同時代性を感じ、勇気づけられる。

ましてや達郎とトモエの間にある強くてしなやかな絆。ページをめくるごとに何気ないやりとりから深い愛情があふれ出してくる。そして2人の信頼関係の延長線上に読者は置かれる。いつの間にかヒーローでも美男美女でもない2人を家族のように応援してしまう。

そう、彼らと供に生き抜く感覚こそが本作品の魅力なのだ。

参考サイト
Webコミック「モアイ」

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。