それは漫画家の新機軸となりえるか? ケン・ニイムラの過去と現在

本連載前の第0回として2013年に取材した漫画家ケン・ニイムラ氏のインタビューを再掲します。ケン・ニイムラ氏は、スペインで育ち、大学時代にベルギーへ留学、その後フランス在住→現在、日本在住。フランス時代に描きあげた『I KILL GIANTS』が全米で刊行され話題となり、外務省主催・第5回国際漫画賞では最優秀賞受賞を獲得。海外マンガのコンペティション「ガイマン賞2013」で2位。自身の国際色豊かなバックグラウンドを反映するかのような、日本マンガ的な要素とバンドデシネのような海外マンガ的な要素が共存する独自の作風が魅力のひとつです。
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2010年から、日本は国を挙げてポップカルチャーを主としたソフトを海外に打ち出してきた。その中でもマンガやアニメは海外でもポピュラーなものだろう(日本以外でこの記事をご覧の読者、いかがだろう?)。一方、「ガイマン賞」や「海外マンガフェスタ」の開催を筆頭に、日本以外の国のマンガを日本で広げる動きも活発化の兆しが出ている。

それでも、まだまだこれから。「国境を越える」という言葉では無く、そもそも越えるものなんて無い状態ーー「フラット」になれたならば、マンガもバンド・デシネもアメコミもマンファももっともっと、読者との素敵な出会いが生まれるに違いない。

それをごくごくナチュラルに実現している漫画家、ケン・ニイムラのこれまでと現在に迫った。

とにかく好きで、自然と続けていた

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雑誌「月刊IKKI」(小学館刊)が運営するウェブコミックサイト「WEBイキパラCOMIC」で『ヘ/ン/シ/ン』を連載していたニイムラさん。この日の取材はIKKI編集部で行われた。
マンガを描き始めたのはいつから?

物心ついた時から気がついたら何か描いていました。とにかく本が好きで、紙にマンガを描いてホチキスでとめて一冊にまとめるのを楽しんでいて。なぜ好きか、というのはあまり考えたことが無くて、とにかく好き!です。

スペインのマドリッドご出身だそうですが、どれくらい住んでいましたか?

生まれてからずっとスペインでしたが、父の帰省に合わせて、父の実家がある日本には2年に1回くらいの頻度で行っていました。大学を卒業するまではずっとスペインですね。

マドリッドはプラド美術館などがありますが、芸術面でそういった美術館などの存在の影響は?

小学校の授業で足を運んだことはありますが僕は全然良さがわからなくて(笑)、もちろん良いもの、優れたものだという認識はあったんですが「ふーん」みたいな。油絵や絵画って、トーンが暗かったりして、小学生じゃそういうの楽しめないですよ。でも、デッサンは好きだったので10歳くらいからレッスンを受けていました。高校も美術の学科があるところを選んで……方向性はずっとそんな感じです。

描いたマンガをホッチキスでとめて本にしていた少年が、本格的にマンガ家として活動し始めたのはいつから?

今でもあの頃と、気持ちとしては同じなんです。だからガラッと何かを変えたわけではありません。でもいうならば、本格的にやり始めたのは15歳。友達とテーマを決め、読み切りを描いて同人誌にするのを7年ほど続けていました。

ken-niimura02デビュー作の『UNDERGROUND LOVE』。

なるほど。そこからどう漫画家になったのでしょうか?

そういう活動をしているうちに、大学2年生の時にスペインで商業デビューしました。それは日本のコミックスのような形ではなく、32ページくらいのどちらかというとアメリカのコミックブックに近い読切りを描いて、他に作品を5作ほど。でも、やっぱりこれまでの延長線上にあるもの。「プロ漫画家になったぞ!」という気持ちではなく、もっともっと勉強したいと感じました。大学の美術科では専攻を選ばなくても良かったので、写真、デザイン、クロッキー、油絵、なんでも勉強していきましたね。「マンガ家になりたい」という気持ちはずっとありましたが、それでうまくいくとは限らない。ここできちんと幅広く勉強しておけば、漫画家として生きていけなくても別の仕事をしながらマンガを描けると思って。在学中、絵本の勉強ができるベルギーの美大に短期留学したこともありました。

『I KILL GIANTS』がつなぐ縁

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I KILL GIANTS』の日本版(左)と米国版(右)。日本版は青年コミックにもよく見られる四六判だが、米国版はサイズが横20.5×縦28.3cmのA4サイズと、日本のコミックのサイズに慣れているとかなり大ぶりに見える。(原作:ジョー・ケリー、作画:ケン・ニイムラ、日本語訳:柳 亨英)
I KILL GIANTS』の作画を担当するまでの経緯を教えてください。

スペインにも日本のコミケやコミティアと同じように、「サロン・デル・マンガ・デ・バルセロナ」といったいくつかコミック・コンベンションがあり、そこに友達と一緒に出展していたんです。そのコンベンションの一つで『I KILL GIANTS』原作者のジョー・ケリーさんに声をかけて頂いて、作画を担当することになりました。パリに滞在しながら1年かけて描き上げて、2009年に出版。ここから3〜4年が漫画家として色々な学びがあった期間でしたね。この作品のおかげでフィンランド、イタリア、アメリカなどさまざまな国のコンベンションに招待して頂きました。

I KILL GIANTS』で一気に活動が広がったんですね。

そうなんです。マーベルでジョーさんと『スパイダーマン』などスーパーヒーローもの短編を描いたりしていたのもこの時期。初めての経験も学びも多く、とても楽しい期間でした。ですが結果として思ったのは、細々と作品を出すのはとても勉強になるけれど、キャリアとして考えると厳しい。もっと自分を試せるチャンスが必要だと思いました。それが、日本に行こうと思ったきっかけでした。

ken-niimura05作中のページを日米版で比較してみた。日本語訳すると文字数が増えるため、フキダシが大きめになっている。フキダシ内の余白も日本版のほうが広めだ。ニイムラさんは原稿を手描きで仕上げた後にスキャンし、Illustratorでフキダシのレイヤーとコマの枠線のレイヤーを重ねる作画方法をとっているため、このような後からの調整が可能だった。

まとめてみると、大学卒業後はパリに滞在されていて、そこで『I KILL GIANTS』を描き、その後日本へ、ということですか?

正確には、24歳の2006年に大学を卒業してパリへ行き2009年まで滞在し、海外をブラブラしてから2011年9月に日本へ渡った、という流れです。パリではスペイン向けWEBサイトに向けて、パリのカフェやショップなどの情報を発信したりエッセイマンガなどを描く仕事をしていました。

なぜ、日本だったんですか?

もともと行き来があってなじみのある国だったので、どんな国がわかっていたので安心だったというのと、マンガに対する仕事の仕方の違いです。バンド・デシネの作家には編集者が制作中の作品に対して口をあまり挟みません。最初に何を作るかのみ打ち合わせたらあとは作家が完成まで持っていくのみ。僕にとってこれは、きちんと面白いものを作れているのか不安が残る進め方なんです。

一方日本では、ストーリーも作画も編集者と密に打ち合わせをして一緒に作る。この方法が合うな、と感じました。『I KILL GIANTS』を描いていた時もアメリカの編集者は僕の作画に何も介入してこなくて、これは普通、“親切なこと”なんですが、僕はとても不安で。もちろん自分一人だけで完結できる作家は大勢いて、そこでいい作品を作れるのは天才だと思うし、純粋にすごいと感じています。ただ、僕はそのスタイルじゃなかった。

ken-niimura06ニイムラさんの作業部屋。昭和レトロな雑貨やインテリアなのが印象的だ。少し古めかしいものが歴史を感じて好きなんだそう。子供の頃も、同級生が話題にするような流行の音楽より、親世代がよく聴くものが好きだったという。

日本のマンガ制作スタイルで、作品を描く

日本のマンガ制作スタイルで『へ/ン/シ/ン』を描いてみて、いかがですか?

ネームを描いて、編集者に見せて、色々と相談してやり直したりもして……OKだったら原稿を進める。このスタイルで良いものができているなという実感はあります。少なくとも前よりは……あくまで個人的に、ですけどね!(笑)前よりも脚本も書けるようになったというのは、確実にありますね。

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へ/ン/シ/ン』第4話の練習原稿。「いつもやるわけではありませんが線の描き方、キャラクター、などパターンを変えて6回ほどやってみました」とニイムラさん。少年のパンツのゴム紐のような小さな部分も、細かな調整を加えパターンを描き出している。

ken-niimura09線を全て筆で描いた第5話の原稿。女性の髪、光の方向などが丁寧に描かれている。

ken-niimura10第9話の原稿。この時も筆を使って描かれており、雨、川、人物、建物などより洗練された印象だ。

絵を見てみると『へ/ン/シ/ン』と『I KILL GIANTS』は大きく印象が違いますね。

へ/ン/シ/ン』では読みやすさに集中していますので、今回はあまりしていませんが、『I KILL GIANTS』では映画っぽく描いています。ラストシーンとの対比になるよう影も多めに、ダークに。使っているのは線を描くペンとベタ用の日本の筆で、書道で使う筆にインクをつけて使っていました。あとはパソコンでグレーのトーンをつけました。原稿用紙は水彩用の紙を使って、印刷された時に少しテクスチャーが出るようにしています。Photoshop的にいうなら、ノイズが出るように。キレイすぎると作品に合わないと思って、作品に合った情報量になるようにしています。200ページくらいの作品自体が初めてで、それを同じ手法で貫くのも初めて。僕にとってとても実験的でした。

マンガを描くにあたって、好きなテーマはありますか?

うーん、難しいのですが、何かコミュニケーションが絡んでいるもの。言葉が通じないからわからない、じゃなくて、語らなくても通じ合えるものがある。それは日常のささいな中にもあって、そこを描いてみると楽しいと思うんです。通じ合えないこともあるからこそ楽しい。

ken-niimura11アイデアスケッチ。「考え事をする時は、日本語、英語、スペイン語どれでも。その時に合わせて」だそう。スケッチから察するに、静止画で考えるよりも映像が頭の中に流れているようだ。

ken-niimura12ネームはA4用紙を4つに分割し、4ページ分のアイデアを。

ken-niimura13第11話のラフ。「猫を飼いたいが飼えない」というニイムラさんのむずむず、わくわくした猫への愛とキュートな妄想が伝わってくる。

今後について、どう考えていますか。

まずは『へ/ン/シ/ン』の単行本と来年スペインで出る短編集を仕上げることに注力します。あとは新しい作品の準備を始めたいと思っています。みなさんに面白いと思ってもらえるようにしたいですね。

ありがとうございました!

ニイムラさんにインタビューをしてみてわかったのは、マンガを描くということがごくごく自然に彼の中にあるということ。それが許される環境があれば、そこへ行く。冒頭でも述べたように、日本を含めさまざまな国々が互いのコンテンツを広げようとしているが、作り手の視点に立ってみるのもいいのではないだろうか。作り手にとって「作品を生み出せて、生活できる環境があればどこへでも」という考えは、おおいに“アリ”。海外で活躍する漫画家が日本で存分に活動できる場を整えてみれば、マンガやアニメ業界にも新たな展開も期待できるのではないだろうか。(2013/12/23)

ken-niimura14インタビューにあたり、イラストを描いていただきました。

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文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

ギフトマンガ2015~誰かに贈りたいマンガ10選+α

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2015年、明けましておめでとうございます。本年もマンガナイトは「マンガを介したコミュニケーション」を合言葉に、さらに活動の幅を拡げていきます! よろしくお願いします。

さて、去る2014年末にマンガナイトメンバー有志で、2014年に発行されたものの中から、プレゼントとして誰かに贈りたいマンガを10作品選出しました。

『9時にはおうちに帰りたい』(青色イリコ)――職場の同僚に

女性2人の残業しながらのダラダラ話を中心にした4コマ…それ以上でもそれ以下でもないが、その内容がオタク文化に触れてきたアラサー女子の心に刺さりまくる! 帯のチェックリストが秀逸。

『ドミトリーともきんす』(高野文子)――姪っ子や甥っ子に

高名な科学者たちが学生で、もし同じ寮の中に住んでいたら?「理系の心」を感覚的で柔らかく、それでいて本質を捉えたタッチで伝える意欲作。

『MASTERキートン Reマスター』(浦沢直樹、長崎尚志)――青春の思い出を伝えたい人に

キートンがおじさんになり、その娘は離婚… マンガの登場人物にも人生があった。それでも自然に面白く読めてしまう不思議。なんといっても、新刊で心躍るあの表紙がまた見られることの興奮!

『東京タラレバ娘』(東村アキコ)――20代のOLに

仕事にも恋愛にも難ありの女性が主人公。でも、自分の周りもそんな人が少なくない、と時勢にあった1冊。こうならないための「地方消滅」(増田寛也)か、この先を突っ走った「負け犬の遠吠え」(酒井順子)とのあわせ読みをオススメ。

『アルテ』(大久保圭)――今から就職する学生たちへ

仕事の中にある、キラキラした感情の素晴らしさを伝える一方で、「好きだったら努力しろ、お金が欲しいなら夢を捨てろ」と厳しいメッセージも説く、「はたらく」ことの意味に迫った稀有な内容。

『ねこ背を治したいにゃー』(はませのりこ)――ねこ背の父に

ねこ背を治すために、作者自身が奮闘するエッセイマンガ。ねこ背にならない立ち方や歩き方など、具体的だし、かわいい。健康マンガの可能性を感じさせる作品。

『俺物語!!』(アルコ×河原和音)――全妻帯者に

「細々した言い訳はいわない、悪いと思ったら謝る、人には分け隔てなく接する」――主人公の猛男の男らしさを見習え、と元は推薦者が妻に渡された1冊。読んで納得、こんどは自分が勧める番だ!

『臨死!! 江古田ちゃん』(瀧波ユカリ)――シェアハウスのルームメイトに

推薦者が都内で初めて経験したシェアハウス、その時ルームメイトから勧められた作品が、東京を去る今年、完結を迎えた。本命のマーくんとの決着は? 切なさ1.5倍増しの最終巻。

『パンの漫画』(堀道広)――一風変わったパン好きの友だちに

パンに対する日常をベースに、オシャレなパンをひたすら紹介する4コマ。オチ無し、太すぎる首、凝った装丁、それらを止揚するテキストと、読めば新たな次元が開ける1冊。

『さよなら、またあした』(松本藍)――マンガナイトクラスターに

劣等感のある人たちの描写に定評ある作者が、書店を舞台に作り上げた物語。偏屈な書店員(イケメン)にドMな女子高生がいじめられるストーリー。あとがきにマンガナイトメンバーが登場!?

『とんかつDJアゲ太郎』(小山ゆうじろう、イーピャオ)――トンカツは知っているけどDJの凄さが分からないWEBマンガ派の人に

クラブの楽しさ、DJの人の凄さって何? トンカツでそれを説明してやろう! 脅威の比喩と類例のないノリでトンカツとDJを対比するドラッギーな展開。読了後には白目を剥いて「確かに!」とつぶやいている筈。

いかがでしたか? 自分で読むにも、誰かに勧めるにも、2015年のスタートにぜひ普段読まないようなマンガと出会ってみてください。
文=本多正徳
1980年、広島生まれ。専門出版社勤務。マンガナイトではすっかりイジラれ担当になってしまった最近(!?)。男子校の寮でマンガの面白さに目覚めました。好きなジャンルはガロ系とヘタウマ系。藤子不二雄やつげ義春、水木しげるなどの古典的ナンバーも得意。心のマンガは『ダンドリくん(泉昌之)』『サルでも描けるまんが教室(相原コージ、竹熊健太郎)』でしょうか… ほかの趣味は読書、囲碁・将棋と悲しいほどのインドア派。ウェブサイト/グッズ制作を担当。

少女マンガは社会的な課題と接続していないのだろうか

前回の論評で「少女マンガの華は今も昔も恋愛である」と書いた。その内容を否定するわけではない。しかし、魅力的な華が故に生まれる誤解もある。それは少女マンガが恋愛ばかりを扱い、環境問題や原発問題、経済格差など、社会的な課題と接続していないのではないかという指摘だ。この批判、そのまま少女マンガは幼稚だと言われているような気分になりとても不快なのだが、それに対し、少女マンガらしさを失うことなく、社会的な課題を扱っているマンガを提示してカウンターを与えられたらと思い筆をとった。紹介するのは岩本ナオ『雨無村役場産業課兼観光係』である。

この作品初出は2007年と決して新しくはない。しかし、近年顕著になってきている過疎化、少子高齢化、地方移住といった問題を全て引き受ける内容になっている。主人公・銀一郎は東京の大学を出た後、少しでも地元の役に立ちたいと故郷の村役場に就職を決める。付き合っていた彼女は田舎暮らしを嫌い、就職とともに関係を終わらせる。

物語は銀一郎と幼馴染みのメグ、後輩の澄緒の三人を中心にまわる。「ここじゃ16でデキ婚で高校中退のウチの弟みたいなののほうが喜ばれるぐらいだし」とはメグの台詞。彼女は20歳そこそこであるのにも関わらず、自分の体型を気にして、結婚相手の心配をしているのだ。銀一郎は、晩婚化が進み、「おひとり様」も珍しくない都会とは異なった、田舎の洗礼を帰省早々受けることになる。

いざ初登庁してみても、近所で捕れたヌートリアの尻尾を数えることが仕事だったり、大型スーパーの誘致に失敗して村長が落ち込んでいたりと、理想の職場とはかけ離れた状況に置かれる。予算も少なく、若者もおらず、主だった産業もない…、雨無村は日本中どこにでもある田舎の村だ。銀一郎はそんな状況でも前を向き、経験を積みつつ、村を活性化させ、地域を維持するためのアイデアを練っていく。

Uターン就職を決めた銀一郎は、彼女との別れや役場での仕事から本当に自分の選んだ道が正しいのか悩む。そんな悩みを忘れさせてくれるのが、将来のことを考えずになんとなくフリーターをしている澄緒とアイドルの追っかけをしながらも将来を悲観する幼馴染みのメグとの他愛もないやり取りである。当然、少女マンガの定石を外さず、この三人の関係には恋愛が織り込まれていく。

近年、地方への移住を考える若者が増えてきている。しかし、実行の障壁となっているのが、雇用機会の少なさと、地方独特の面倒くささ、特に人間関係だ。求人に関しては全員が銀一郎のように役場の職員とはいかなくとも、選ばなければ介護系を中心にあるし、IT系のエンジニアなどは都会に居なくとも仕事をこなせるので、移住を決断する例も多い。かえって地域を維持するための若い働き手は、田舎において非常に重宝される。一方、地方独特の面倒くささについてはこれといって論じられる事が無い。あっという間に噂が広まったり、陰口を叩かれたり、村八分にされたりと地縁が無い物にとって地方暮らしに踏み出す恐怖心は意外に強い。

では、どうすれば良いのか。「地域存続の危機」と既存住民を煽って新規転入者に寛容になれと言うのか。転入者に、この土地の習慣だから辛抱してくれと言うのか。どちらも簡単に進むわけではないが、移り住む人たちが安定して暮らし続ける事ができる環境を、従来の住民と一緒に作っていくための努力は必要だろう。そうした状況を意識し、最近は移住者と従来からの住民の間を取り持ち、住居や農作業の世話をする「定住コーディネーター」を置いている自治体も珍しくなくなってきている。

さて、銀一郎が仕事をする中で、地域活性化のネタとして目を付けたのは、村の山に生える巨大な桜である。この桜を中心に祭りを企画すれば、観光客を集める事ができるし、村全体が結束するのではと考えたのである。確かに地域における具体的な目標を共にするというのは、コミュニティの醸成に大きな効果が期待できる。それは桜祭りのようなイベントを村あげて開催することであったり、地域の特産品を使って新たな商品を作り出したりと、何もせずに縮小や衰退を嘆いたり仕方なく受け入れるだけではなく、具体的な行動に移すことである。

ただ、コミュニティの活性化において配慮してならなければいけないポイントがある。それは地域活性化の取り組みは成長し続けることが求められるものではないということだ。企業活動に携わると、必ず成果として前年以上の数字が求められる。常に業績は右肩上がりであるべきだという経営のルールがそこにはあるのだ。しかし、地域においてのイベントや特産品は、常勝を目指していては成り立たない。近隣のライバルも幸せにならなければ、広域で見た時に地域全体が活性化しないからである。

社会学の巨人、タルコット・パーソンズは成長、成功や利益を目的とした、手段としての行動を「インスツルメンツ・アクティヴィスム」とし、一方、行動自体に満足を覚える、自己充足のための行動を「コンサマトリー・アクティヴィスム」とした。経営戦略や受験勉強といったインスツルメンツ・アクティヴィスムは「売上高」や「偏差値」といった一定以上の成果を得るために行われる。そして、活動の目標となる数値は次第に高まっていく。一方、働くことそのものから得られる満足や、勉強すること自体が好きで、何かが分かることによって得られる満足にモチベートされて行われるのがコンサマトリー・アクティヴィスムというのだ。前者が一定の目的を達成すれば完結したり、さらなる目標の再生産を行ったりするのに対し、後者はライフワークとして行われることが多く、明確なハードルやゴールがない。

実際、地域において振興のためのアイデアを出し、住民の活動を促進していく立場(本作では銀一郎)においても、前年以上の成果が求められるのは非常につらいし、小さな村がコミュニティとして割ける労力やコスト、ファシリティには限界がある。作中にも桜祭りに予想以上の来客があり、駐車場が足りなくなるなど、そうした細かい問題が描かれている。地域おこしは、観光客や消費者といった外部の人の高評価を得るという面が重視されがちだが、当事者の負担やそれに伴う持続性の担保を考慮すればインスツルメンタル・アクティヴィスムの枠組みで解釈される活動ではなく、身の丈で手作り感を失わず、活動そのものによって関係者の自己充足心が満たされるコンサマトリー・アクティヴィスムの枠内で評価されるべき対象なのではないだろうか。

現代の日本においては依然、経済最優先で右肩上がりを前提にいろいろな物事を考える習慣が残されている。企業の業績や日本の国際競争力、基礎学力の向上など、数値の積み上げが評価される分野ではそういった評価が有効となる。一方、人口減少や過疎化、高齢化、貧困格差などをその論理でとらえようとすると、どうもしっくりこないのである。役所が行う公共サービスや住民が主体となった地域活性化においては、いかに負担無く持続できるか、そしてその活動自体から関係者が満足感を得るかという事が重要になるからだ。私は決してインスツルメンタル・アクティヴィスムを否定しているわけではない。そのものさしでは評価しきれないコンサマトリー・アクティヴィスムの存在を意識するだけで、今までとらえきれなかった物事について語り合うことが出来るのでは、と考えているのだ。

あぁ、スッキリした。

少女マンガの華は今も昔も恋愛である。確かに、主人公中心の小さな世界で、恋愛成就をゴールとして、流行の要素を取り入れるために社会情勢を利用する…そんな作品も無いわけではないが、それをもって「少女マンガ=幼稚」と決めつけるのはあまりにも短絡だ。社会に起こる多様な問題に挑み、その中にそっと恋愛を置く。そうした、少女マンガだからこそたどれる社会問題への接続方法があるのだから。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。東京に妻子を残して単身みちのく生活。自由にマンガが買えると思いきや、品揃えが良い書店が近所に無いのが目下の悩み。研究論文も書かなきゃね。

「私のどこが好き?」と訊かれた時、どう答えるのが正解だろうか

この論考が『少女漫画研究ノート』と題しているからにはいつか向き合わなければいけない大きなテーマがある。それは「恋愛」だ。そう、少女漫画の華は今も昔も「恋愛」なのである。一方、「恋愛」とはいったい何なのかということは我々研究者にとってもっとも訊かれたくない質問かもしれない。そんな事を考えさせられる作品が届いた。夏目ココロの『わたしと繁殖いたしましょう』である。(最初に断っておくが、あまりにも直球なタイトルがついているとはいえ、成人向け作品ではなくあくまで女性向けの一般作品である。)

本作の下敷きとなっているのは昔話の『浦島太郎』。数万光年離れた惑星RYUGUから「繁殖」を目的に、かつての恋人である浦島太郎を追いかけて地球に現れた乙姫と、勝手に浦島と決めつけられてしまった美少年(?)、潮カズキの一風変わったSFラブコメ作品である。

乙姫は初対面のカズキを浦島と思い込み、自分たちの子孫を繁栄させるために様々な手段で繁殖行為を持ちかける。しかし、RYUGUの子孫を繁栄させること=地球の滅亡であると知ったカズキは乙姫の誘惑を拒み続ける。そもそも恋愛の結果として繁殖に至ることはあったとしても、好きでもない相手と恋愛の過程を全て抜きにして、繁殖から始めるなんてことはあり得ないというのがカズキの主張だ。なんと倫理的で真っ当な主人公だろうか。

乙姫は浦島とのDNAの一致からカズキを繁殖の相手として特定する。科学的に証明されているのでその手続きは明晰で嘘が無い。だからといってDNAの相性といった、科学的な根拠のみに基づきパートナーを決めるなど現実的ではないことを私たちは知っている。そんな証拠が手元になくとも、大概の人は特定の誰かを好きになり、恋愛に至るからだ。

しかし、ここで大きな疑問が残る。それは私たちがどうやって沢山の人間の中から、特定の相手を選び出し、添い遂げようとするのかということである。もっと簡単に言ってしまえば「なぜその人に恋するのか」ということだ。

例えば巷のアンケートなどでは恋愛の相手に望む条件として「やさしい人」とか「明るい人」といったものが挙げられる。「そりゃそうだよなぁ」と思いながらも「やさしいって何だ?」、「明るい人=何も考えていない人なのでは?」といった疑問も立ち上がる。「やさしい人」や「明るい人」になるためのテクニックがあるのならそれを習得した人が引く手数多になるのだろうか。出会いの手段の合コンも「知人が紹介してくれる人なら大丈夫かも」といった他力な安心感の上に成り立つし、「肉食系」「草食系」といった恋愛に対する態度もどこか言い訳じみて聞こえる。もう、いろいろ曖昧すぎて「?」の再生産なのである。

なぜ、人は恋をするのか。そしてなぜ一人の人を選び出すのか。社会学者の大澤真幸は著書『恋愛の不可能性について』の中でその問に迫っている。恋愛に至るという事は自分が相手に選ばれたという事実を踏まえている。そして、誰もが恋愛の相手に対して自分だけを愛してほしいと考える。だが、その一方で自分がなぜ選ばれたのかの理由を求めているし、自分への関心が他人へ移ることの恐怖を感じている。

「私のどこが好き?」なんて真顔で訊く人は多くないだろうが、友人や親類に「彼(女)のどこを好きになったの?」と訊かれることはあるかもしれない。しかし、この問に答える際には大きな落とし穴が待っている。「容姿」「性格」「スタイル」「年収」と何でも理由は付けられるし、条件を増やし、強化していくこともできる。だが、「容姿」といったところで、誰もが世界一美しい相手を選べるわけでもなく、「性格の良さ」などは何を基準に判定しているかわからない。中途半端なスペックの相手を曖昧な基準の下に選択した証拠を挙げ続け、不信を加速させるという負のスパイラルに陥らないためには、笑顔で逃げ切るのが良策かもしれない。

だが、この問に全く有効な答がないかというと、そうでもなさそうだ。私たちは、相手(およびその性質)のみを認識し、判断しているのではなく、相手とそれを取り巻く関係性を合わせて選択していると大澤は言うのだ。相手を選択した理由をすべて相手の中に、個体の中に求めていっても、それは相手に真実性をもって伝わらない。そのスペックを越える他人が現れるかもしれないからだ。一方、相手とその周囲の関係性は単純に「友達が何人いる」といった数字に還元できるものではなく、他人と比較できない。どんな経験を積んできたか、どんな人たちと付き合ってきたか、どんな服を身にまとっているか、どんな音楽を聴くのか等々、その人とその人を取り囲む世界の関係性は簡単には紐解けないものなのである。これをふまえれば、先の質問には「君の雰囲気が好き」と返すことでより正解に近づくだろうか。

物語が進むに連れて、乙姫が一方的にカズキを追いかける展開から、カズキが乙姫を救い出すヒーロー展開へと状況が変化する。この状況の変化にも彼女と接するうちに、ただ繁殖目的で迫っていると思っていた相手に対する恐怖とは異なる感覚の萌芽を見いだせる。乙姫と周囲とのやり取りや、過去の事情などを知ることによって彼女に対するイメージが変わり、恋が生まれたのである。これと同じように、私たちは相手とそれを取り巻く世界を深く知ることによって、想いを育んでいると考えられる。

あぁ、スッキリした。

正直、周囲の生命科学者に恋に堕ちる原理を訊くと「ドーパミンが…」、「アドレナリンが…」と順を追って丁寧に説明をしてくれるのだが、どこかスッキリしない。そんな科学的な説明よりも「相手の雰囲気が…」と平素な言葉で丸めこまれる方に安堵を覚えるのは、研究者としていけない態度なのだろうか。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。東京に妻子を残して単身みちのく生活。自由にマンガが買えると思いきや、品揃えが良い書店が近所に無いのが目下の悩み。研究論文も書かなきゃね。

就職戦線に赴く学生にとって適職につくための決め手は何だろうか

地方に住んでいるとあまり肌で感じることは無いが、どうやら景気が上向いてきているらしい。その影響は就職活動を行う学生にもあらわれ、数年前に見られた内定を求める死の行進のような状況は打破されつつある。

大学生の子供をもつ親御さんはご存知かもしれないが、昨今の大学は教養を付け、研究論文を書くという本来の高等教育・研究を担う姿とは大きく異なったものになってきている。入学して「さあ、基礎教養を身につけよう」という状況にはならず、「さあ、就職戦線を勝ち抜く術を身につけよう」と各種キャリアアップゼミや就職対策サークルに入るのだ。ゼミナールと言えば教員を囲んでの古典の輪読、海外論文の抄読などがイメージされる。しかし、今は名刺の渡し方や面接の受け方などが実践形式で行われ、その指導のために就職カウンセラーやキャリアコンサルタントを雇っている学校も少なくない。大学は教養を身に付け、人生を豊かにする自由な学問の場から、より実践的な社会人力を付けて世の中に出て行くための就職予備校のようになっているのだ。

確かに大学全入時代と言われ、「大卒」という学歴だけでは就職戦線で勝ち残れない状況が背景にあることには共感する。しかし、そもそも「働く」と「職を得る」は違うのではないか。そんなことを考えさせられる作品に出会った。大久保圭の『アルテ』である。

舞台は16世紀初頭のフィレンツェ。他のマンガ作品で言えば惣領冬実『チェーザレ破壊の創造者』で知られるチェーザレ・ボルジアが活躍した時代である。主人公アルテは貴族の娘、絵を描くことが大好きで母親の反対を受けながらも父に許され、日々絵を描いて暮らしていた。物語はそんな主人公の父親が死去するところからスタートする。

当時、女性にとって多くの持参金を携え、より身分の高い男性のところに嫁入りする人生が最高の幸せと考えられていた。アルテの母親も当然その慣習に則り、アルテに持参金を与え、早く結婚するように勧める。しかし、アルテは絵を描いて生きていくことを決め、母親と対立して家を飛び出す。

いくつもの絵画工房の門を叩くアルテ。だが、女であるというだけで相手にしてはもらえない。絵が上手い下手という評価を受けることすら許されない彼女は、その状況にくじけながらも決してあきらめない。自分の絵は十分通用するはずという、ある種の思い込みが彼女を動かす。そしてついにある工房の入門試験を受けるところにまで至るのだ。

彼女の姿を見ていて気づくのは、一見、職を得ようとしているようだが、その実は働こうとしているということだ。「働く」とは自らの意思を持ち、社会の中で自分の役割を見つけ出して行動することである。本来であれば貴族の娘として働かなくとも生きていけるし、お金を稼ぐだけなら作中に出てくる高級娼婦のような道もあるのだ。だが、彼女はあくまで「絵を描く」という役割で社会にコミットしようとする。

ここまで読まれて「全員が全員、アルテの様になれるわけじゃないよ」という感想を持たれる方もいるだろう。私自身、その感想には同意するところもある。しかし、その意見には二つの意味が込められていると思うのだ。一つは、誰もがアルテのように高い技術を身に着けて、社会に挑戦できるわけではないという意見。もう一つは誰もがアルテのように大好きなことを見つけ出すことはできないという意見だ。

前者の意見は至極まっとうだと思う。実際企業に勤めると、大学で勉強、研究してきたことがそのまま役に立つなんてことは稀であり、自ら稼ぎを生み出す一人前の社員に育つには何年もかかることも珍しくない。かといって多様な業種や職種がある世の中で、大学が個々の学生に実践的な力を付けさせるための取り組みを行うなんてことは不可能に近い。

しかし、後者の意見にはちょっと疑問が残る。いくら職やお金が貰えるとしても、嫌いなことをずっと続けるのは辛い。「人が面倒な事、やりたくない事をするからこそ、お金がもらえるんだ」と言われても、やはり、自分がやりがいを感じる、そして自分に合った職を見つけたいと思うのが普通であろう。

私の周囲の研究者を見てみると、大きく二つのタイプに分けられる。まず、自分が研究で扱う「対象」が好きな人だ。文学でも生物でも宇宙工学でも構わないのだが、とにかく対象が大好きでそれについてより多くの新しいことを発見したいという意欲を持っている人である。もう一方は研究する際の「プロセス」が好きな人だ。物事を調べることが、実験することが、論理的に組み立てることが好きで対象というよりは作業のスマートさやテクニックにこだわりを持っている。もちろん、この二つどちらも大好きだという幸せな人もいる。反対にこの二つのどちらにも当てはまらないとすると、どんなに高学歴な人であっても研究で飯を食っていくことは苦痛でしかないだろう。

これは他の分野、職業にも共通して言えることではないか、と私は考えている。仕事で扱う「対象」が好きなのか、仕事の「プロセス」が好きなのか、どちらかが備わっていれば、意欲をもって続けられる。当然二つ揃えばさらにラッキーだ。そして、その可能性を探るための時間が大学時代なのである。

誤解して頂きたくないのは、私は決して「大学に入ったのだから学費以上分勉強せよ」と言っているのではない。勉強に向いている人、向いていない人、集中力が長く続く人、瞬発力がある人、単純作業を正確にこなせる人…様々な経験を介し、自分はどんな人間なのかを自覚する期間として大学時代をとらえて欲しいのだ。

齢こそ違えど、アルテにとっては父親が亡くなるまでが、自分が好きなことを見つけ、自分の特性を知るための期間であったし、その経験があるからこそ、周囲の反対を押し切っても自信を持って挑み続けることが出来たのだ。「自分探し」というと胡散臭いが、自分の性質を確認することから自信につなげていき、自分の足で立てるようになるという事だろうか。

あぁ、スッキリした。

まぁ、勉強以外の事もたくさんして欲しいとは言いながらも、私としては立場上、やっぱり大学に来たからには勉強が第一だぞとも思ったりするのだが。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。東京に妻子を残して単身みちのく生活。自由にマンガが買えると思いきや、品揃えが良い書店が近所に無いのが目下の悩み。研究論文も書かなきゃね。

『バッファロー5人娘』で読み抜く女心の真意

文=山内康裕(マンガナイト)

さっきまで笑顔だったのに、突然怒り出した。理由を聞くと、さらに怒った……男性諸君であれば、一度はこうした理解しがたい状況に陥ったことがあるだろう。「女心と秋の空」「女の心は猫の目」ーーこの不可解さは、男にとって最大の謎ともいえる。これを理解するための道しるべは、マンガの中にもある。マンガには、様々な女性の感情や思い、生き方を描いたすぐれた作品が多い。たとえば安野モヨコ作「バッファロー5人娘」(祥伝社)もそのひとつだ。この作品を読めば、なかなかわかりにくい女性の思考回路がわかるようになるかもしれない。

「バッファロー5人娘」の舞台は砂漠に点在する町。主役のキャンディとスージーは事件を起こして町にいられなくなってしまう。町を転々とするなかで仲間を集め、時にはぶつかり合いながらも保安官から逃亡を続ける彼女ら。生きるために娼婦として男に買われながらも、恋をあきらめない5人が、友情をはぐくみ、恋をしていく姿を描いている。

5人娘は、性格がそれぞれ全く異なる。ある者は前向きで楽天的。ある者は疑い深くクールだ。それぞれのキャラクターの性格はわかりやすく、行動も一貫している。
マンガは小さなコマで読者にどのキャラクターかを区別させなくてはならない。そのため当然の描き分けともみえるが、この性格のわかりやすさは結果として、現実の女性の複雑な感情を一つずつ抜き出し、キャラクターに振り分けて具現化しているといえるのではないだろうか。

男性にとって、様々な感情を複雑に併せ持つ女性を一度に理解しようとすると混乱するかもしれない。だが、本作では一人の女性がもつ複雑な感情が切り分けられ、別々のキャラクターに当てはめられている。そのため「こういう感情を持つからこのような行動をするのか」と腑に落ちる。

例えばスージー。彼女は序盤で「逃げ出すのは地獄」と思いながらも、キャンディに誘われて逃げ出す。一方、一緒に逃げ出したにも関わらず、裏切られたくないからまた一人になろうとする。そのくせ、ピンチになると「ひとりぼっちだから誰も助けてくれない」と思う。実に矛盾した発言・行動が多いが、その裏にある感情がわかると納得できるのだ。

性格が全く異なる5人が一緒に行動しているのも、男性からは理解できないかもしれない。だが5人それぞれの性格が「ひとりの女性のうちにある存在」と考えれば、自然に思えるのではないだろうか。

それだけではなく、各キャラクターが抱える想いもまた矛盾に満ちたものだ。「男性より強くなりたい」「自立して生きていきたい」と思う反面、「恋したい」「すがりたくなったら、受けとめて欲しい」という思いが、相反しながらも一人の女性のなかに共存しているのだ。どちらかといえば、物語では後者がネックとなる。

本作の中で5人娘は、みなそれぞれの恋をしている。ただ性格が異なるがゆえに、恋する相手や疲れたときの頼り方は、まったく異なる。

女性らの肉体の描かれ方も、「女性の気持ちを理解する」という観点からこの作品を読む時は助けとなる。5人娘は非常にセクシーに描かれているが、男性に性的アピールを感じさせるようないやらしさはあまり感じない。作者の安野が女性であるからなのはもちろん、女性向けに描かれているからだ。性的対象として偶像化された女性ではなく、人を愛し愛されたいと精一杯生きている等身大の人間として描かれている。男性からみてもひとりの人間として愛情を注ぎたい、生身の人間として理解したいと思わせる描き方だ。

もちろん青年誌に掲載される男性が主人公の作品にもセクシーな女性像は登場する。胸を大きく強調されて描かれる彼女たちの性格は、恰好よくみせようとしつつ実はあまえたがりというものが典型的だ。作中の人間関係は、特定の男性にだけ弱さを見せる美女と、その弱さも受け入れる頼れる男性という構図。女性は男性のスタイルに都合よく描かれ、男女の間で人間関係を築こうという葛藤はみられない。また男性側からも相手を理解して愛情を注ごうとは思えない。そのような努力をしなくても相手の女性が弱みを見せて頼ってくれるからだ。

男性諸君にとってはまさに「女性の恋心の教科書」。私自身も、女性の「好き」「楽しい」「嫌い」などの言葉を聞いたとき、そのままの意味なのか、それとも裏に本当の思いが隠れているのか、両方の可能性を考えなければならないと改めて実感した。女性の場合、ただの言葉尻だけでなく、表情やしぐさからも感情を推測しなければ真意に近づけないのだろう。

安野モヨコ作品に登場する女性キャラクターは、時に裏腹で理不尽で、そして愛おしくなるような、女性の魅力を描き出している。目から鱗の発見も多そうだ。「バッファロー5人娘」をきっかけに、ほかの安野先生の作品を読んでいけば、女心がわかるカッコいいオトコに近づくかもしれない。

文=山内康裕
1979年生。法政大学イノベーションマネジメント研究科修了(MBA in accounting)。 2009年、マンガを介したコミュニケーションを生み出すユニット「マンガナイト」を結成し代表を務める。 イベント・ワークショップ・デザイン・執筆・選書(「このマンガがすごい!」等)を手がける。 また、2010年にはマンガ関連の企画会社「レインボーバード合同会社」を設立し、“マンガ”を軸に施設・展示・販促・商品等のコンテンツプロデュース・キュレーション・プランニング業務等を提供している。 主な実績は「立川まんがぱーく」「東京ワンピースタワー」「池袋シネマチ祭2014」「日本財団これも学習マンガだ!」「アニメorange展」等。 「さいとう・たかを劇画文化財団」理事、「国際文化都市整備機構」監事も務める。共著に『『ONE PIECE』に学ぶ最強ビジネスチームの作り方(集英社)』、『人生と勉強に効く学べるマンガ100冊(文藝春秋)』等。

僕たちは多様性と向き合えているだろうか

「21世紀は多様性の時代だ」と言われ、「ダイバーシティ」という単語に接する機会も増えた。
でも、まだ私自身この「タヨウ」を捉えきれていないのだ。これはまずいなという私の焦りから今回は始めよう。

価値観の多様化という言葉は既に私たちの手元にあり、その存在は当然のこととして受けとめられていると言って良いだろう。しかし、その多様性を私たちが許容しているだろうか、あるいは多様であることの恩恵を私たちは得られているだろうかというとかすかに疑問が残る。そんなことを考えさせられる作品が手元に届いた。唐沢千晶の『田舎の結婚』である。

田舎の結婚』はそのタイトル通り、田舎に暮らす男女が恋愛を経て結婚に至るストーリーをまとめたオムニバス作品だ。畜産農家の息子、花火工場の跡取り娘と各話ごとに主人公たちがおかれている状況は異なるが、共通して印象に残るのは価値観の多様性を受け入れることで自分たちなりの幸せを獲得していることである。

一流大学を出れば、一流企業に勤めれば、都会で暮らしていれば…それらの条件は(全てがそうであるとは保証できないが)経済的な豊かさや社会的なステータスを高める為に必要だと考えられている。何も現代に限ったことではなく昔から「都に行けば」「良家との縁談が」といった話はあるわけだが、現代のように人生の選択肢が広がった中でも、こうした成功のためのステレオタイプが多くの人たちの間で共有されていると言うのはある意味異様でもある。

こうした、なんだかわからないけど私たちが心に抱いてしまう共通の理想像とそれに伴う圧力について、正面から向き合った思想家がハンナ・アーレントである。アーレントは、主体性を持たずに他人から与えられた理想を共有することによって生まれる連帯を「全体主義」と呼んだ。みんなが足並みをそろえて共通の理想に向かって進んでいけばきっと社会は良くなるはずという思い込みこそ危険だと彼女はいうのだ。

「平和」や「幸福」に向かってみんなが努力するのなら、なにも悪くないのでは?と考える方もおられるだろう。しかし、アーレントは「平和のため」とか「幸福のため」という正しさを疑えないスローガンの下に他者が虐げられたり排除されたりすることがあってはならないと言っているのだ。「あいつは非協力的だ」とか「変わったことをする奴だ」というように。多様な人がそれぞれの幸せに向かって進み、互いの幸せを容認できるように議論を重ねていく状態が人間本来の活動であるというのがアーレントの主張だ。

さて、話を『田舎の結婚』に戻そう。各話に登場する主人公達は最初何らかの劣等感を持っている。それは容姿、学歴、家族関係であり共通するのは田舎であるというものだ。例えば第一話の冒頭で語られる、「二両編成の電車が一時間に一本。コンビニまで車で5分。買い物は隣町のジャスコで。山の中には鹿どころか熊もいて、満月の晩には畑で猿が踊る。なにもない、それが俺の住んでいる村」という風に。

しかし、彼らはそんな状況におかれながらも、関係を深め、次第に自分だけではなく相手の幸せは何かを考え出す。自分が悩んでいるように相手も悩んでいるのでは、と思いやる気持ちが生まれ、その次に待っているのが、自分たちなりの幸せとは何かという問いだ。世間一般でいわれている幸せとは違ったとしても自分たちが、さらに自分たちを支えてくれる人たちが幸せであるなら、自分たちで決めた道を進もうという勇気が生まれる。相手が自分と違っているからこそ補いあえるということに気付くのである。

その証拠に、先の生活環境に対する心象表現は第一話の最後にも出てくるが、その時は全く違ったイメージで読者に届く。自分で決めたオリジナルの道であるからこそ他人との違いを誇れるし、他の幸せへの道も尊重できるようになる。正に多様性、そしてその許容とはそういうことではないか。

ただ、こうして偉そうに話している私自身についても、同様に気をつけなければいけないことがあるのにお気づきだろうか。一つはこの作品をもって「田舎は素晴らしい」という牧歌的な田舎信仰としてこの文章を書かないこと。そしてもう一つは「結婚は素晴らしい」という伝統的な家庭信仰を宣伝する内容に陥らないことだ。

当然、この作品を読み終えて「田舎って良いな」「結婚って良いな」と感じられる方もいらっしゃるかもしれない(正直、農学部出身で地方生活を送る身としてはとても嬉しい)。しかし、これらの設定に共感を覚えない方が居るとしたら、試しに谷川史子の『おひとり様物語』(講談社、Kiss連載)も読んでみてほしい。

こちらは反対に都会に住むおひとり様女子達が結婚や恋愛と向き合いつつ、自分にとっての幸せを見つけているオムニバス作品だ。どうしても『田舎の結婚』の「結婚=幸せ」という結末や田舎で暮らすことのドロドロを描かないというシチュエーションに違和感を覚える方がいらっしゃれば、また違った状況の中で、多様な生き方を選択していく若者たちの細やかな心象描写に触れることが出来るだろう。

田舎の結婚』や『おひとり様物語』のような作品が描かれる背景として、「タヨウだ、タヨウだ」と言われて、確かに昔に比べて私たちの人生の選択肢は遥かに多様になっていたとしても、なにか周囲の目を気にしたり、旧来からの価値観に合わせてしまってその多様さの恩恵を体感できていない人が一定数いるからではないだろうか。多様な選択から自分で選び出したことに対する責任は当然自分が負わなければいけない。その一歩を踏み出す後押しをしてくれるのがこうした作品なのだ。

田舎の結婚』が最も強く伝えようとしているのは、表面上の田舎での幸せな結婚ではなく、多様な幸せのあり方、人生の送り方があるということであり、その存在を認め合うことの重要性だ。それを伝えようという作者の誠実さが、この作品をただの少女マンガではない存在にしているといって良い。

納得。あぁ、スッキリした。

わざわざアーレントに登場してもらったのは大げさだっただろうか。でも、その価値がある作品だと私は自信を持って言おう。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。東京に妻子を残して単身みちのく生活。自由にマンガが買えると思いきや、品揃えが良い書店が近所に無いのが目下の悩み。研究論文も書かなきゃね。

非生物の「かばん」に語らせる新たな表現手法

ウラモトユウコの最新作が届いた。かばんとその持ち主を巡るオムニバス作品『かばんとりどり』だ。
彼女の特徴であるさらりとした人物描写やシンプルな背景の描き込みは変わらないが、読み終えてみると過去作とは異なる印象が残った。さらっと、軽快に受けとめられる書籍のイメージと反して、とても濃厚なドラマを見終えたときのような感覚になったのだ。

淡白に仕上げられているはずの作品が、なぜこんなに深く印象に残るのだろうか。研究者の悪い癖で、一旦考え出すと答が見つかるまで止まれない。そして、行き着いた答は「この作品には主人公が2人ずついるからではないか」というものだった。

まず、本作『かばんとりどり』について説明しておこう。構成はオムニバス作品なので1話完結。主人公も、一部姉妹や同僚でリレーする事もあるが各話ごとに交代する。女性である事が共通している以外、主人公の年齢、職業も小学生からOLまで様々である。そうした彼女達と彼女達が持つかばんを中心に展開される作品だ。

私が読後の不思議な感覚を解くための足がかりを得たのは、帯にある「女子のかばんには理由がつまっている。」という一文であった。そのまま読んでしまえば「なんのことだろう」と流してしまうが、読後に触れると、ハッとさせられる。勝手に言い換えるなら「女子のかばんは持ち主の分身である」ということなのだ。

あまり「女性」「男性」をわけて議論する事を好まない人もいるかもしれない。しかし、一般的に男性はかばんに機能を求める傾向が強いように思う。どれだけ荷物が入るか、ポケットが何箇所ついているのか、防水素材か云々。いわばツールを格納、運搬するためのメタツールとしてかばんを選んでいるのだ。少なくとも私はそうである。

一方、女性は機能よりもシチュエーションを考慮してかばんを選んでいるのではないか。なぜなら女性がいう「ツカエルかばん」というのは、多くの場面や服装に合わせる事が可能なかばんのことで、容量や耐久性は二の次にされていると感じるからである。

そして、かばんの中身=アイテムについても男女で違いがあるのではないか、と私はさらに仮説を掘り下げた。男性は前述のようにかばんにツールを詰め込む感覚で、いわば日曜大工のツールボックスの延長のようにアイテムを詰め込む。だから、例え中に収まったアイテムについて何かを語るとしても、それは個々のアイテムのスペックであって、決して叙情的なストーリーでは無いはずだ。

一方、女性のかばんの中身にはストーリーが欠かせない。本作中にも幾度と現れるが、その日(あるいは今後)起こるであろう事態を想定し、それらに対応できるようストーリー上にアイテムが選定される。そして想定されたストーリーに合わせてアイテム達が機能する事により、それら自体にストーリーが染み込む。ゆえに、かばんに入っているアイテム達が一体となってストーリーを構成すると同時に、個々のアイテム自体もストーリーを背負っており、かばんの中に時間と奥行きをもった意味の多次元空間が発現しているのである。こんなに熱を込めて書くと、女性のかばんに対して幻想を抱き過ぎだと思われるだろうか。

だが、あえて仮定してみたのだ。「女性のかばんは持ち主のストーリー無しには成立しない、持ち主の分身となる存在である」と。その検証のために、女性のかばんの中に入っているアイテムを全て取り出して並べたとしよう。そして、それらを同じ機能をもつ別のものと置き換えたらどうなるだろうか。そう、使い込んだ手帳を(情報は移行させて)別の新しい手帳に、週末アイロンをかけたハンカチを新しいハンカチにと言った具合に。果たして機能としては同じかばんが出来上がるはずだ。だが、それは何の価値も持たない存在になってしまうのではないか。

すなわち女性のかばん世界においてストーリー(あるいはコンテクストと言っても良い)の欠落は、その存在意義を決定的に失わせる可能性が高いのである。つまり、かばんとその中身は持ち主自身のアイデンティティや積み重ねてきた人生そのものであり、それをまとわない品々で取り繕われたところでそこに自分を見いだす事ができなくなる。正に、かばんは記号の集積によって成り立っているのではなく、持ち主を象徴する存在であり、かばんは持ち主の分身になっているのだ。(男性は機能さえまかなえれば、多少アイテムが入れ替わっても納得するかも知れない。僕だったら余程のこだわりの品以外は新しい事を喜んでしまうかもなあと思う。ここについては、より時間や手間をかけて調査する必要があるだろう。)

ここまで書くと、私がこの作品から感じ取った不思議な印象の原因を「この作品には主人公が2人ずついる」と結論づけた理由がおわかりいただけるのではないだろうか。各話では主人公が行動し、発言しているのと同時に、その傍らで分身たるかばんが寡黙にもう一人の主人公を演じている。それゆえに主人公の存在感は相乗的に大きくなるし、彼女達のプロファイルもかばん内のアイテムを介して再述、共有されるので、個々のキャラクターがかぶらず、読み飽きる事が無い。

マリオ・プラーツの言葉を変えていえば「あなたのかばんに何が入っているか言ってごらんなさい。あなたがどんな人間か話してあげますよ」というわけだ。

印象に残るマンガを作るための表現を思い浮かべると、密な描き込みや壮大なストーリー、強烈な台詞、奇想天外なキャラクターなどが思い浮かぶ。しかし『かばんとりどり』で用いられた手法はそれとは全く異なっている。それは作者の個性である、さらっと軽快な世界観を保ったままに主人公にまつわるストーリーを増加させ、濃厚な作品を味わったかのような感覚を生み出すものである。

納得。あぁ、スッキリした。

おそるべし、策略家、ウラモトユウコ(とその編集者)である。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。東京に妻子を残して単身みちのく生活。自由にマンガが買えると思いきや、品揃えが良い書店が近所に無いのが目下の悩み。研究論文も書かなきゃね。

マンガナイトセレクト ジャケ買いマンガ5選~日本マンガのブックデザイン~

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「ジャケ買い」とは、内容ではなくパッケージ(マンガの場合は「表紙」)に惹かれて、物を買うことを言います。ジャケ=ジャケット(≒表紙)の意味です。数ある書籍の中でも、マンガほど自由度が高く、創造性を発揮できる「表紙」をもつものはないのではないでしょうか。

というわけで、今回は、「表紙」に着目して、特に魅力のあるマンガを選んでみました。(もちろん、内容もお墨付きです!)改めてみると本当に様々な表現がありますね。表紙をみるだけで内容を想像してワクワクしてしまうようなものもあれば、マンガ家・出版社等の想いを反映したものもあれば、はたまた、マーケティング戦略のひとつとして重要な役割を果たしていたりと、表紙から今の日本のマンガ文化そのものが透けて見えるようです。
みなさんもこれを参考に、本屋でマンガの「ジャケ買い」をしてみてはいかがでしょうか。

『もやしもん』(石川雅之)

テレビドラマやアニメ化されるなど、今でこそ国民的な認知度を誇る本作も、第1巻発売時には知る人ぞ知る存在だった。ただ、他の作品とは一線を画す立ち位置であることは、書店に並べられた単行本の装丁からも感じられた。
タイトルよりもまず目に入ってくるのは、帯に書かれた、大豆インクを使ってプリントされている事と、古紙100%再生紙を使用している事を伝える文言。作品のあらすじやアオリではないのだ。だが、これは本作のフィールドである「農業」が綺麗な作物や加工品をつくる事を目的とするのではなく、安全で、安心で、そして結果的に美味しい食品を提供する事を第一に掲げていることとピッタリ重なる。
「装丁は書籍の顔だ」と言われる中で、過度に化粧させず、作品の性格を伝えようとする誠実なデザインがここにはあるのだ。(いけだこういち)

『う』(ラズウェル細木)

たった一文字のタイトルに、「うな丼」のアップを描いたカット。帯にある「鰻(まん)画」の文字が全てを物語るように、世にも珍しい「ウナギだけ」を扱った作品だ。1巻完結予定でスタートしたが、関東・関西の違いや、中華、フランス、イタリア料理での食べ方、すき焼きや燻製などの調理法と多岐に渡った結果、第4巻(99話)まで続いた。「諸国“鰻”遊」「やる気“鰻鰻”」など、雑誌掲載時の欄外に掲載していた文字も単行本に収録し、隅々までウナギ尽くしとなっている。今回、表紙を紹介した第2巻は内容も脂がのっていて、コラムには「土用の丑の日」考案で有名な平賀(源内)家の7代目当主、平賀一善氏や、苗字が「鰻」さんも登場。資源の枯渇が不安視されるウナギを、より深く味わうために読んでおきたい。(旨井旬一)

『暗殺教室』(松井優征)

各巻の表紙の原則は、単色カラー+主要キャラクター主要キャラクターの「殺せんせー」の顔というシンプルなもの。第1巻は黄色からスタート。第5巻の白色や第9巻のチョコレート色など、あまり単行本の表紙には使われない色も使う。作者のコメントなどをみると、微妙な色の調整や殺せんせーの顔の配置など、非常に考えられたデザインのようだ。実際書店では、淡い色合いや人物画が多い中で、単色デザインは逆に目立つ。「あえて説明せず」という戦略の裏には、作品への自信、強気の姿勢が感じられる。すでにヒット作を持つマンガ家による発行部数の多い少年誌での連載作品であり、インパクトのあるタイトル。再度単行本の表紙で内容を説明する必要はないと考えたのではないだろうか。学校という閉じられた空間のなかで、殺せんせーの「暗殺」を通じた中学生の成長譚を描く少年誌らしいストーリー。落ちこぼれだった生徒たちが、少しずつ自信をつけていく展開は、読者に勇気を与える。そんな話の展開とあわせて、どこまで「単色表紙」を貫けるか、気になるところだ。(bookish)

『秘密―トップ・シークレット』(清水玲子)

近未来の日本を舞台に、生前の脳が見た映像を再現する「MRIスキャナー」を使った捜査で、難事件を解明していく。その特権を与えられた科警研の苦闘を描いている作品である。第1巻では、単色の背景に、男性とも女性とも取れる薪(まき)の中性的な顔を挟んで「秘密」という文字が配置されており、そのシンプルで大胆な構図は、人間味が感じられないほど丹精で美しい顔を一層引き立て、見る者の目を奪う。
冷たいような何かを諦観しているかのような視線の先に、これから始まる膨大な、重大な秘密を予感させてくれる。
また、表紙を開くと一枚のトレーシングペーパーが遊び紙として挟まれており、その次のページの中表紙が薄く透ける仕様になっている。その絵の美しさにも息を飲むので、是非手に取ってもらいたい。(ヤマダナナコ)

『あめのちはれ』(びっけ)

雨の中で佇んでいる制服姿の男子女子。白い背景と青くにじんだ彩色が瑞々しさを感じさせる装丁である。「あめのちはれ」は男子校と隣接する女子高を舞台にした、ファンタジックな学園ストーリーである。物語の根幹となる大きな設定は少女漫画らしくふんわりまとめられているが、時折出てくる生活風景や細部の描写にはリアリティが感じられる。コミックスは1巻ずつテーマカラーが異なっており、次巻はどの色になるか当ててみるのも楽しい。これから来る雨の季節に、部屋の中で学生生活を思い出しながら読んでみてほしい。(Kuu)

マンガナイトセレクト お仕事マンガ5選~マンガでわかる日本のお仕事事情~

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4月は新生活がスタートする季節。これを読んでいる方の中には、今年から新社会人となった方もいるでしょう。社会人になって久しい方も、新社会人だったころの自分を思い出しながら、初心を返って襟を正したり、自分の変化や成長を実感する季節かもしれません。
今回は、そんな季節に相応しい、「お仕事」を描くマンガを選びました。

ところで、海外の方にとって、日本人の「働く」イメージは「勤勉」「長時間労働」「ものづくりに長けている」等でしょうか。確かにそういう面も、いまだに色濃くあると思います。でも、実際はそれだけじゃない。ぜひ、日本の働き方そのものや、働くことに対する価値観の多様性を感じとって、作中の登場人物たちと一緒に「お仕事」を疑似体験してみてください。

『カレチ』池田邦彦

日本が世界に誇るサービスのひとつに鉄道があげられる。車両や運行システムだけでなく、それに関わる人々の努力の上に世界一正確なサービスが実現しているのだ。池田邦彦『カレチ』は貨客列車の車掌を主人公に鉄道に関わる人たちの仕事と人生を描く作品だ。ただ、その中に描かれているのは明文化されたルールを守るだけではなく、仕事に誇りを持ちながらも、人情厚く、臨機応変に利用者第一の判断をする、倫理的な鉄道員たちの姿である。殺伐としがちな現代の職場において、欠いてしまいがちな「思いやり」を再認識させてくれる名作といえる。(いけだこういち)

『宮本から君へ』新井英樹

大学を卒業したばかりの主人公・宮本は都内の文具メーカー新米営業。右も左も分からないながらに先輩や取引先に噛み付くことだけは一人前。とにかくがむしゃらで社会の理不尽には屈せず、自分の理想をところ構わず主張し、そのたびに現実との乖離に打ちのめされる日々。たまに情熱がいい方向に行くが、情熱だけではうまくいかないのが仕事である。新社会人の頃に読むとあまりにも青臭く「こんなサラリーマンになりたくない」と思うだろうが、社会人経験が増えるごとに感想が人によって大きく異なってくる本作。これからの社会人生活で時折読み返し、そのたびに自分の変化を発見してみてほしい。(kukurer)

『スキエンティア』戸田誠二

自由の女神ならぬ「科学の女神」像が高層タワーの上から人間の生活を見下ろす近未来の日本。しかし、ここで現代に生きる我々と同じように生きづらさを抱える登場人物たちを救うのは、高度な科学技術そのものではない。彼らはひたむきにそれぞれの仕事に打ち込み、悩み、苦しみ、葛藤しつつも大きな達成感を得る、その過程で少しだけテクノロジーの力を借りながら、やがて試練を乗り越えていく。いつの世も、大人の生きる道は険しい。みんな何かを失ったり、諦めたり、挫折しながら、それでも現実に立ち向かっていく。泥臭く実直に自分の仕事をこなすことの喜びや、その姿勢の尊さを描き出す本作は、そんな働く大人たちへのエールのような作品である。(鈴木史恵)

『アゲイン!!』久保ミツロウ

働くとは「はた」を「らく」にすることだとか言うように、日本人の労働観は身近な集団の中でどういった役割を果たすかという問題抜きには成り立たない。自己実現というより、求められた職責に適応する行為としての仕事。その萌芽は、就職以前の学園ものにも表れている。卒業間際で自分にも周りにも不平タラタラだったさえない主人公が、タイムスリップして高校生活をやり直す(=アゲインする)ことになったのをきっかけに、一種の開き直りから応援団を舞台に、以前なら絶対引き受けなかったような役どころを担い、あがく中で意外な能力を発揮し、周りも変わっていく。集団の中での役割を通じた個人の自己体現というものを、信じてみたくなる作品だ。(洛中洛外)

『独身OLのすべて』まずりん

新入社員が社会に入って直面する大変なことに仕事はもちろん、職場の人間関係があるだろう。この作品はデフォルメされたノブ子、マユ子、タマ子の独身OLたちが世間を知らない新入社員や充実した生活を送る既婚者に毒舌を吐き、あるいは共感を生み、あるいは悲哀を生むWEB連載のフルカラーコミックだ。アラサーからアラフォー世代に共感しやすいネタが各所に散りばめられているので同世代が共感することは間違いないのだが、新入社員が本作を読むことによって上司たちのネタ元や共通言語(シークレットコード)を事前学習して職場の人間関係を円滑に回す役にも立つ職場人間関係のバイブルとしてもオススメしたい。(オオタカズナリ)

マンガナイトセレクト お花見マンガ5選:「花」から感じる日本の美意識

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こんにちは。マンガナイトです。今月より、毎月テーマを決めて、マンガナイトメンバーがおすすめマンガを紹介していきます。今月のテーマは“お花見マンガ5選~「花」から感じる日本の美意識~”春の訪れを日に日に感じるこの季節にマンガでお花見をしながら、日本の美意識を再確認してはいかがでしょうか。季節折々に咲かせる花は、古くから和歌や美術などのモチーフとなり、日本独特の「四季」の情感と彩を、作品に与えてきました。現代のマンガの中にも、花を象徴的に扱っている作品があります。今回はそんな作品を5点選びました。

『雨柳堂夢咄(うりゅうどうゆめばなし)』波津彬子

時は明治。骨董屋・雨柳堂(うりゅうどう)を舞台に、骨董品にまつわる因縁を描く幻想物語。雨柳堂の店主の孫、連が、持ち込まれる骨董品の声を聞き、人と人あらざるものの間をつないでいく。その媒介となるのが四季折々の花だ。店のシンボルが柳であるように、多くのエピソードに植物、特に花の姿が描かれる。「月の花影」では人の姿をとり、自らの最後の花を花入れにさしてもらいに。「一朝の夢」では葉っぱが不思議な茶会への招待状に。「夜咄」では、梅の木直々に、指定の盆鉢への入れ替えを依頼される―と、この作品で、花は骨董品の模様としてだけでなく、人と人ではない世界の架け橋としても登場。日本人が身近にある植物に親しみつつも、その生命力に特別な力を見いだしていることを感じさせる作品だ。(bookish)

『花食う乙女』絹田村子

食べられる花、エディブルフラワーという言葉が一般化してきている。しかし、日本には古くからふきのとうや菜の花を春の訪れとして楽しむ文化があり、東北地方を中心として盛んに行われている食用菊の栽培などから「花を食べる」ことへの心理的ハードルは決して高くなかったといえる。そんな文化を知ってか知らずか、大学の薬用植物園を舞台に繰り広げられるコメディを描いた作品が『花食う乙女』だ。大学のエリート研究員、宇佐見となぜか彼の部下になってしまった激貧の占い師、遠子。植物にまつわる効用や成分をもとに二人が植物園で起こる事件を解決していくという、推理作品的様相も持ち合わせる異色の作品と言えるだろう。(いけだこういち)

『おいしい銀座 バイヤー真理』酒井郁子

東京・銀座の老舗百貨店で、食品仕入れを担当する現場を扱った作品。2巻収録の「春告げ魚 サワラ」は、花見がテーマだ。桜(主にソメイヨシノ)の花見は1年の節目の時期に、誰もが楽しみにしているイベント。見ごろが1~2週間しかない桜の開花に合わせた食材の仕入れを見極めるため、百貨店周辺の桜の開花状況やお花見客の様子を見回る。桜は元日からの積算温度が600度で開花すると言われるが、予想が2日前後ずれることもある。「お花見弁当」等「お花見」の文字があるだけで売り上げが3割も変わるため、小さな公園もチェックして準備を進める。私たちが毎年、おいしい食べ物に囲まれて花見を楽しめている裏には、こうした仕入れ担当者の努力があるのだろうと思わせてくれる。(旨井旬一)

『花吐き乙女』松田奈緒子

片想いをすると花を吐く奇病「花吐き病」。患者が吐いた花に他人がさわると感染してしまうが、恋をしない限り症状が出ることはない―。世にも不思議な「花吐き病」の謎を解こうとする研究所の面々が織りなす群像漫画である。装丁はレトロモダンで抒情的な感じだが、ストーリーはそれを見事に裏切るごった煮感が魅力。登場人物が花を吐くシーンは苦しそうでいて、見ていると段々すがすがしさまで覚えてくるから不思議だ。そこに描かれる花はチューリップや水仙、百合など多種多様で、華やかさをもたらしている。作者のエッセンスがたっぷり詰まっていて、ぜひ注目してほしい一冊である。(Kuu)

『花よりも花の如く』成田美名子

伝統芸能である「能」を主軸に置き、能楽師として成長してゆく主人公の姿を描いたこの作品は、タイトルからして『花』と謳われているように、様々な「花」が象徴的に描かれており、各エピソードと絡まりながら技巧的かつ繊細に表現されている。作中では梅、桜、蓮、杜若、菊、牡丹、林檎など四季折々の花たちが物語を彩り、単に絵の中に華を添えるだけでなく、登場人物の心の機微に触れる重要な役割を果たしている。「花は自分が美しいことを知らない」という主人公の言葉が、静かに染み込んでくる作画である。また日本画の技法が取り入れられた表紙もこの作品の見所。「能」と「花」を見事に融合させ、日本的な美しさに溢れている作品である。(ヤマダナナコ)

~本屋B&B連動企画「マンガナイト×PingMag」~

昨年末に特集した「BEST of 2013 マンガナイトセレクトの海外にも紹介したい漫画10選」を、下北沢の「本屋B&B」にて、期間限定の特別企画で展示販売しておりますので、ぜひお立ち寄りください。今後もこちらで紹介したマンガを随時B&Bで展示販売する予定です。お楽しみに。

正解を模索する曖昧な往来

大今良時氏にとって初のオリジナル作品『聲の形』(週刊少年マガジンに連載中)。小学6年生の主人公・石田将也のクラスに聴覚に障害をもつ西宮硝子が転校してくるところから始まるこの物語は、“曖昧な往来”がマンガの世界を超えてこちら側の現実に飛び込んでくる。

子どもの将也にとって耳の聞こえない硝子は異星人そのもので、彼女の私物を捨てても、大声で悪口を言っても、何ら罪悪感を感じることもない。クラスメイトも将也に同調し行動はエスカレートしていくが、最終的に将也のほうがいじめられる側になってしまい小学校生活は暗澹たるものになる。一方で硝子は転校してしまい、後悔や懺悔も伝える術もないまま将也の鬱々とした時代が始まってしまう。

時に硝子の母親にビンタをくらいながら、時に誰かの手によって停学に陥れられながらも心のうちにあるものを行動にうつし、目に見えるように「聲」が聞こえない相手に届けるためにひたすら悩みあがく、見えないものを形にしていくことがこの『聲の形』というタイトルにつながっていくのだと思う。

だが同じくして、将也は久々にできた高校の友人・永束にこう質問している。「“友達の定義”って何かわかる?」。これに対し永束は、それは定義づけないといけないものなのか? 友情は言葉や理屈を超えたところにあると思う、とハッキリと答えた。

物語はこれまで相手に何かを届けるためにどんなに鞭打たれても行動していく姿を描いていたが、ここで「言葉や理屈を超えたところ」という、将也のそれまでを全否定といってもいいシーンを描いている。硝子に近づいてもいいのか、その資格があるのか、再び将也の行動原理はぐらつく。ぐらつきながらも、おそるおそる硝子に近づいていく。

何が正解か明快なものが存在しない中で「やっぱりこっちが正解なのか?」「自分は間違っていたんじゃないのか?」と、行ったり来たり悩みながら変化していく将也の“曖昧な往来”。ヒーローのように正義の鉄槌を下すこともなく、ライバルを打ちのめすこともなく、ひたすら迷い続けるこの姿こそが現実世界に生きる人間にリアルさを感じさせ、目が話せなくなってしまうのだ。

kawamata
文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

原典へと誘う“キャラクター化”の効果

2月も終盤に入り、受験シーズンが大詰めを迎えている。試験までに多くの知識を身につけなくてはならない学生、教養や社会常識が問われる社会人ーーいつになっても「知識の習得」から人は逃れることはできない。その習得をエンターテインメントにするのが、「キャラクター化」だ。教養などの知識が自分になじみ深い方向に引き寄せられており、知れば知るほど楽しさが増すーー。キャラクター化はそんな好循環を生み出している。

文豪をキャラクター化した作品『文豪ストレイドックス』(原作=朝霧カフカ、漫画=春河35、KADOKAWA、ヤングエース連載中)もその1つだ。芥川龍之介ら有名な作家をモチーフにした登場人物が、敵と味方に分かれ、超能力を駆使して闘うファンタジーである。

この作品の肝は、人物造形の面白さだ。登場する多くのキャラクターの場合、容姿は今の読者にウケがいい造形だが、性格や超能力は、作家の残したエピソードや代表作を意識している。

例えば主人公の「中島敦」。名前は歴史上の文豪の本名そのものだが、容姿は華奢な美少年となっており、残されている作家の写真とは印象が異なる。他の文豪もほぼ同様の扱いで、中には性別が変わっているキャラクターもいる。一方で彼らの性格や超能力には、作家本人の個性や代表作が反映されている。「太宰治」は自殺愛好家であり、「谷崎潤一郎」の能力名は「細雪」、というように。

このようなキャラクター化された作家による物語を通じて、読者はキャラクターを通じて、作家そのものに親しみを覚えるようになる。自分にとって遠い存在だった作家達が一気に身近な存在になるのだ。たとえそれぞれの作品を読んだことがない人でも自然と作家本人についての知識が頭に入ってくる。その結果、「本当にこんな人だったのか」「どんな作品なのか」とオリジナルに興味を引かれるようになる。

もちろんもともと文学史や作家に関心があった人の楽しみはより大きい。次はどの作家が登場するのか、どんな名前の必殺技が飛び出すのか、その必殺技はどんな効力があるのか―先の読めないストーリー展開に加えてこんな予想ができるからだ。文学の知識があればあるほど、その楽しみは無限に増えていく。

知識重視の勉強に代表される「知識の習得」の苦痛の悪影響のひとつは、その苦痛によって知識そのものが嫌いになってしまうことだ。このアレルギーを乗り越える方法のひとつとして、キャラクター化は有効なのだ。

既存のものにキャラクターという新たな名前と形を与え、関係性を生み出して、物語を作っていく試み。これは意外に日本社会に浸透している。例えば2013年から話題沸騰中の「艦隊これくしょん」。日本の戦艦を萌え擬人化したキャラクターを使ったゲームを通じて、戦艦名が自然と頭に入ってきた人も多いのではないだろうか。これまでも元素記号や世界各国の擬人化・キャラクター化した作品が登場している。必ずしも万人向けではないかもしれないが、自分の感性に合えば、知識の吸収を助ける。今後も様々な分野で作品が増えていくだろう。

『文豪ストレイドックス』では、発売中の3巻で早くも海外の文豪が登場。現時点では直接ストーリーとは絡んでいないが、綾辻行人、京極夏彦、そして『ダヴィンチ・コード』で有名なダン・ブラウンなど存命の作家もキャラクター化されている。この作品が、今後もファンを広げながら多くの読者の興味をオリジナルの文学にも引き付けてくれることを願ってやまない。

(kuu)

起業家、投資家、ハッカー。現実に肉薄する描写

フィクション、特にマンガの昔からの役割に、経験できない世界を見せるという役割がある。さだやす『王様達のヴァイキング』(深見真ストーリー協力、週刊ビッグコミックスピリッツで連載中)は、普通の人がなかなか経験しにくい起業や事業たちあげの瞬間を冒険物語ととらえ、私たちに疑似体験させてくれる一作だ。

タイトルにある「王様達」の一人であろう登場人物の是枝一希は、高校中退。パソコン・プログラミングだけが世界とつながるツールという人物。もう一人の坂井大介は個人の資金やノウハウ、ネットワークを提供し、企業を支援するエンジェル投資家だ。この二人が出会い、ハッカーの力でネットセキュリティ分野の新規事業を立ち上げていく。

これまでも起業家を取り上げたマンガはあったが、多くが成功した起業家の一代記。だが本作は、綿密な取材を元に、事業を見つけるところや起業に対する社会の反応を組み込みながら、その工程を魅力的な物語に仕立てている。「今から俺とコーヒーミーティングでも」などキャラクターの細かな台詞にも今の起業カルチャーが反映されている。

このように魅力ある物語になるのは、起業・新規事業立ち上げがまさに冒険そのものだからだ。
海のように広大な市場への挑戦であり、けして一人ではできない。時には波のような周囲からの反発もうけつつ、それでもできるか――経済活性化に起業や新規事業が求められる風潮で、普通の生活からは想像しにくい世界を、フィクションを使いながら読者にこう訴えかけているのだ。

さらにおもしろいのは、起業家・投資家をダークヒーローとして描いていること。ダークヒーローは古くは手塚治虫氏のブラック・ジャックなど「ヒーローだが社会からなかなか理解されない。でも傍に必ず一人は認めてくれる人がいる」存在。もちろん現実世界の起業家がすべてダークヒーローというわけではないが、最初の理解者が少ないという点では起業家をこの系譜に位置づけたい。本作でも是枝や坂井には当初理解者が少なく、既得権益者からは懐疑的な目でみられる。是枝や坂井も、行動と技術で徐々に「味方」(例えば顧客)を見つけていくことになるのだろう。

起業や新規事業の成功率は非常に低く、全員が簡単にできるわけではない。だが未知の文化への扉となり、読者をわくわくさせてあこがれを抱かせる――作られた物語というコンテンツが担う役割を改めて実感させてくれる。

(bookish)

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

SNS以降、人間関係の着地点はどこにあるのか

「コミュニケーションが大切」「会話で人間関係の構築を」ーーそうはいわれても、多様な価値観が広がり、コミュニケーションツールが複雑になる現代社会では、コミュニケーションそのものが一筋縄ではいかない。これを実感させてくれるのが、大瑛ユキオ「ケンガイ」(「月刊!スピリッツ」連載中)だ。

主人公の伊賀(23)は就活を戦線離脱してレンタルビデオ店でアルバイト中。同じ職場の女性・白川(24)が気になり始める。しかし白川は、伊賀のアルバイト仲間内で「あいつはないわ(=恋愛対象の圏外)」とされている女性。伊賀は仲間に評価されないという理由で声をかけられず、伊賀は「ケンガイみたいな扱いを受けるのはよくないことだからきちんと話し合って解決しよう」と白川に働き掛ける。

しかし白川はバイト仲間からの評価を気にしない。さらに考えを押し付けてくる伊賀の接触を遮断しようとする。そして「ケンガイな白川に構うと下の立場になるからやめなよ」という同調圧力をかけてくるバイト仲間ーーそれぞれが己の「人間関係の作り方」「コミュニケーションのやり方」が正しいと考えており、溝が埋まる気配は見えない。

話しあったり気持ちを伝え続けたり、「努力すれば気持ちが通じる」というマンガが多い中、『ケンガイ』には本当に分かり合えない人も世の中にはいるかもしれないと思わせるところが肝だ。

これを読者がリアルに感じるのは、特に20代がこの「分かり合えない」現実に直面しているからだ。SNSを通じて日常や交友関係が丸見えになり、「この人はこういう人」というイメージが勝手に形成される。「自分は他人からどうみえているのだろうか」と意識する人も増えている。その中に、どう見られようが気にしない人、「常識」を重んじる人が交じり合う。コミュニケーションツールの増加で、表面的には人間関係を築いているようにみえて、本質的には溝があるーーこのような状況を日々実感するのが今の若者なのだ。

世代、性別、生活環境などの違いで価値観が理解できない人が交じり合う状況は変わらない。その中で、隣にいる理解できない人たちの人間関係の着地点はあるのだろうか。
(kukurer)

熱気を帯びつつあるアナログゲーム界隈

ハイカルチャーの条件とは何だろうか。
伝統があり、議論や評価をする場が整っており、嗜むのにそれなりの財政的な負担を覚悟する… 少し考えただけでもいくつか条件が想い浮かぶ。

ハイカルチャーとローカルチャーは時代とともに流動する側面も持つ。例えば、マンガは幅広い層の人が手に取り、近年は随分議論する場も揃ってきている。善し悪しは別として学問として学ぶ場も増えてきていることから次第にローカルチャーから離陸しつつあるのが実情だといえる。

すでにハイカルチャーとされる歌舞伎も、もとをたどれば戦国時代に派手で異形の装束をまとう荒くれ者(傾く者=かぶくもの)の姿を真似、型破りの舞を踊ったところから始まった。江戸時代には庶民が楽しむ大衆演芸的要素が強かったとされ、重要無形文化財に認定されたのは1965年と意外に最近のことだ。同じく、茶道も戦場に向かう武士たちがひとときの静けさを得たり、宴会の一部として行われたりしていたものを、豊臣秀吉が武将の嗜みとして一気にハイカルチャーに引き上げたというのは有名な話であるし、近年ではサッカーがJリーグ発足により、野球をしのぐような国民的スポーツに成長したことなども好例といえよう。

そんな文化としての様相について意識させられるマンガが、中道裕大『放課後さいころ倶楽部』(小学館、『ゲッサン』連載)である。

主人公、武笠美紀はクラスでもあまり人との関わりを持とうとしない控えめな高校生。そんな彼女が、転校してきた好奇心おう盛なクラスメイト、高屋敷綾の登場により「ドイツゲーム」として近年知名度を高めてきた海外のアナログゲームの世界にのめり込んでいくストーリーだ。しかし、この二人はゲーム初心者。二人とゲームを結びつけるには、クラス委員長として学校で完璧な姿を演じながらも、兄の影響で小学生のときからそれらに親しんできた、大野翠の存在が欠かせない。

構成は基本一話完結。各話ごとに海外のアナログゲームを主人公たちがプレイし、その面白さを伝えるものだ。ただ、それだけであればゲームの宣伝マンガになってしまうが、本作ではゲームをプレイする側からの視点だけでなく、作る側からの視点も交え語っている点が大きく異なる。

誰もが楽しみ、繰り返しプレイする事ができるゲームを設計するためにどんな工夫がされているのか。どうやって可能な限りシンプルな構成で奥深い世界観を作っていくのか。さらに言ってしまえばゲームを介して人々を幸せにできるのか・・・。ゲームをプレイする中で、美紀と綾はそこに込められた作家の意図に気付いていく。それに対し、ゲームに精通している翠や彼女のアルバイト先『さいころ倶楽部』の店長がそれぞれのゲームが作られたエピソードを紹介する。中でも力を入れて解説されているのは、アナログゲームの地位を立派に文化として語られるステージにまで高めようと努力した、ゲーム作家たちの努力である。店長が言う。

「ドイツではゲームの作り手を『作家』と呼ぶ。ほら、どのパッケージにも作者の名前が書かれているだろう?『小説家』や『漫画家』と同じように、ドイツゲームは『ゲーム作家』が誇りを持って創り出しているんだ」

わずか50年前までは作品、作家という認識を持たれていなかったアナログゲームの地位を、アレックス・ランドルフをはじめとする作家たちは絶え間ない努力で、正統なカルチャーとして認知される位置まで押し上げたのだ。

同じようにマンガやアニメといった海外からクールと賞される日本文化も、登場から長い年月をかけてようやく一般化した。アナログゲームはヨーロッパでは広く認知されているが、日本ではまだ一部愛好者が嗜むという認識が強い。今後、こうしたゲームが広く楽しまれるようになるためには、先に挙げたいくつかの条件をいかにしてクリアしていくかというハードルが存在する。

だが、こうした文化の定着過程をただ傍観するのはもったいなくはないだろうか。是非、本作を読まれて「こんなに面白い世界があるのか」と感じられるのであれば、アナログゲームの楽しさを体感し、広める側に参加してみてほしい。実際、アナログゲーム人気の高まりを受け、ボードゲームカフェと呼ばれる空間が全国に生まれてきているし、専門店も増えてきているのだ。私たちが文化に押し上げる側にまわるための土壌もまた整えられてきている。

『放課後さいころ倶楽部』はそんな熱気を帯びつつあるアナログゲーム界隈の楽しさを伝えるだけでなく、ローカルチャーがハイカルチャーに昇華するうねりを感じさせる魅力的なマンガだといえよう。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。

サービスエリアという「一期一会」の楽しみ

年末年始の帰省ラッシュが近づいてきた。ニュースで渋滞が取り上げられるのが風物詩ともなっている高速道路。その高速道路で巨大テーマパーク並みの集客力を誇る、サービスエリア(SA)を舞台としたのが、末広有行『ドライブご飯 SAグルメ日記』(『週刊漫画TIMES』連載中)だ。

主人公に引っ越し業者の若者と中年の男性コンビを据え、行く先々の「ご当地グルメ」を堪能させる。会社で待つ事務の女性や子どもに、スイーツなどのお土産を買って帰るのが基本の流れだ。連載のスタートは2009年12月。グルメ漫画には料理人が作る過程や、対決をメーンにした作品が多かった中で、実在する施設を題材とした「消費行動」を楽しませてくれるのは新鮮な切り口だった。

SAは、もはやトイレ休憩だけの施設ではない。2012年4月に静岡県で開通した新東名高速では、7カ所あるSAの年間立ち寄り人数が3700万人で、利用者の4割が40分以上滞在したという(NEXCO 中日本公表)。集客数日本一の東京ディズニーランドの入場者数は2750万人(『月刊レジャー産業資料』13年8月公表)だから、商業規模は侮れない。

本作の特徴としては他に、料理やお土産を紹介するコマの大きさが挙げられる。1つの商品がページの半分以上を占め、材料や特色をしっかり書き込んでおり、グルメ漫画としては重要な「シズル感」が満載だ。

ただ、ガイドブックとは違い、商品の「値段」がほとんど記されていない。そこには、SAグルメは商品の入れ替えが激しいことに加え、通りかかった時に季節や流行を味わう「一期一会」の面白さがあると訴えている思いが感じられる。

この作品、初めてまとまったのは12年9月発売のコンビニコミック(ペーパーバック)だ。単行本1巻の発売は13年5月と、非常に間が空いている。作者自身も1巻の巻末で「ココまで長かったですね」と主人公に語らせている。なぜそんな経緯をたどったのだろう。

SAは普通、通過点であり、旅や移動のおまけだ。そのおまけを主題にした本作の立ち位置は、当初手探りだったのではないか。しかし、昨今の節約志向からプチ贅沢に消費動向が変わる中、非日常のSAでの消費行動は、一つの目的として定着してきた。本作は、そんなSAの価値向上とともに見直され、単行本化を果たしたのではないか。2巻の巻末でも「次が出るか分からない」となっているが、時代を彩る作品としてぜひとも続刊を残してほしい。

(029*83)

BEST of 2013 #4:マンガナイトセレクトの海外にも紹介したい漫画10選

こちらのコンテンツは、PingMagからの許諾を得ての転載となります。
元ページの記事はこちら。元ページの英文翻訳記事はこちら

もはや現代の日本を語る上で欠かすことの出来ないものとなった漫画。当然、日本の一年間を振り返ろうとした時にも漫画という要素は外せない!ということで、PingMagで、いつもマンガに関しての記事を執筆していくれているマンガナイトのメンバーに、この2013年で一番印象に残った漫画作品を聞いてみました!

今回は特別にPingMagに合わせて「絵や表現の素晴らしさ」や「日本文化を感じることができる」といった観点から、特に海外の方にも紹介したいと思った漫画を、マンガナイトのメンバーがそれぞれ1作品づつ計10作品選んでくれました。

2013年に印象に残った漫画を教えてください!

『青い鱗と砂の街』小森羊仔

非常に繊細で素晴らしく可愛らしい登場人物達。メルメンな絵本と少女マンガの中間に立つような雰囲気だ。しかし、この作品が際立っているのはキャラクターの存在に過度に依存せず、背景を密に描き込み、生活感や地域感を演出しているところにある。独特の温度で構成された風景は、記憶をたどり人魚を求めるファンタジーの部分と、引っ越しを機に始まる父親との二人暮らし、転校先の学校でのやりとりという二つの部分を違和感なく縫い合わせる役目を果たしている。この作家、この作品でしか味わえない世界観がここにはあるのだ。(いけだこういち)

『アノネ、』今日マチ子

10代の頃、『アンネの日記』を読み終えた夜にみた夢を、そのまま具象化されたような気がした。余白の多い、あっさりとしたシンプルな絵柄。『我が闘争』を彷彿とさせるような赤と黒の装丁。物語は隠れ家から収容所までの一連の流れと、アドルフとアンネを想起させる「太郎」と「花子」の閉ざされた空間におけるつかの間の交歓のあいだを行き来する。まだのびしろの大きい時期ゆえの夢見がちな伸びやかさと、親の呪縛から逃れられない閉塞感に、人の痛みが分からないがための残酷さ。ここで本質的に語られているのは思春期であり、社会情勢の変化などそのスパイスに過ぎない。少女の中に広がる心象風景そのもののような作品だ。(洛中洛外)

『月影ベイベ』小玉ユキ

伝統芸能の民謡と踊り「おわら」を守り伝える町を舞台に、恋や友情、秘密が描かれている作品。みずみずしい方言や古い町家の家並みなど、富山県八尾地域の特色が随所に見られ、日本情緒が堪能できる。装丁も凝っており、カバー裏にはおわら節の歌詞が美しくデザインされている。小物による描写も巧みで、例えば踊りに使う菅笠が舞い手の表情を隠し、ドラマをよりミステリアスに見せている。また、主人公の叔父が予期せぬ出会いに際し思わずこぼすコーヒーや、恋するヒロインが食べるサンドウィッチなど、フードを絡めた描写も印象深い。ただの「ボーイ・ミーツ・ガール」ではないこの作品、今後どうなっていくか楽しみなマンガである。(kuu)

『文豪の食彩』原作:壬生篤、作画:本庄敬

有名人の通う店やお取り寄せは「この人ならば、きっと良いものを食べているはず」という期待で人気のコンテンツだ。ステルス・マーケティングという手法が横行する今でさえ、あこがれの人と同じ空間や味を感じたい、という人は多いだろう。本作は、太宰治に芥川龍之介、永井荷風といった、明治以降の文豪の食生活を題材にした珍しい切り口の作品。わずか100年ほど前の国民的作家が、どんなものを食べていたかを、垣間見ることができる。現存の店も多く、足跡をたどるのも面白い。何よりも、写真では小難しい顔が多い文豪の「嬉しそうに食事する姿」を目にできるのが、マンガの醍醐味とも言える。夏目漱石、正岡子規、樋口一葉も登場。(029*83)

『その男、甘党につき』えすとえむ

フランスでは谷口ジローの漫画が高く評価されている。その理由は過度な装飾が少なく写実的でバンドデシネに近いからだろう。その系譜としてえすとえむを紹介したい。基本的には写実的な絵で大人の恋愛群像劇を描いているが、時々、写実的な絵でシュールなギャグを描く。この作品も、パリに住むやり手弁護士、ジャン=ルイ。一見完璧な紳士に見える彼の大好物はチョコレート——と言った内容である。表紙も紳士がスーツの内ポケットに好物のチョコレートを隠し持つというミスマッチのおかしさを表現している。また、半透明なカバー紙、金色の箔オビ、遊び紙の模様。全て市販チョコレートのパッケージに似せるなど装丁にもこだわり抜いた作品である。(太田和成)

『かげきしょうじょ』斉木久美子

2013年は間違いなく「自分の夢に向かって切磋琢磨しながら成長する」少女たちがメディアでよく活躍した一年だった。本書は表紙こそユニコーンが出てきそうなくらいパステルカラーで原宿カワイイを彷彿とさせるデザインとなっているが、歌劇団養成学校を舞台に一生懸命な天真爛漫な女の子と、やる気がない元アイドルの女の子が、ぶつかりながらトップを目指して成長していく青春物語である。どんなシーンにも10代ならではのキラキラしたひたむきさや純真さが画面から伝わってくる点は現在の少女たちそのものだ。かげきしょうじょたちの成長と今年活躍した少女たちを重ねあわせて一年を振り返ってみても面白いかもしれない。(kukurer)

『僕は問題ありません』宮崎夏次系

やっぱり、天才です。絵も、タイトルも、セリフも、ディテールも、全体も秀逸。宮崎さんにしか出せない、独自の世界観に心ゆくまで没入してください。気持ちいいですよ。内容は、一言でいうと、たぶん、大きな愛についての話です。(イワサキユミ)

『さよならソルシエ』穂積

オランダ出身の画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホとその弟、テオドルス・ヴァン・ゴッホ。この2人の生きざまを、「絵画のよう」といいたい絵柄で描いた作品。ヴィンセントは「ひまわり」など後生に残る作品がありながら、生前には評価されず。弟のテオドルスも、「兄の生活を支えた」としか伝えられていない。そうした通説を元に、「実はこうだったのでは」と大胆な解釈でフィクションを作り上げ、圧倒的な物語として読ませている。同時に働くということについても考えさせられる。弟のテオドルスは作品中、「画家になりたくてなれなかったもの」と描かれる。自分より才能のあふれる人の隣で生きていくとき、人はどのような闇を抱えるのか。またそのなかでもどうすれば居場所を作り上げることができるのかー対照的な兄弟の姿を通じて作者は訴えてくるのだ。(bookish)

『めしばな刑事タチバナ』原作:坂戸佐兵衛、作画:旅井とり

空気系グルメマンガの極北。いかにも仕事のできなそうな刑事たちが、実在のチェーン店、弁当、スナックなどのB級グルメについて、こだわりとウンチクを語りまくる! 首都圏だけの話に終わらず、地方独自の店舗や文化までフォローしているのが凄いと思う。ここまでファストフードに詳しい原作者は何者?(本多正徳)

『ましろのおと』羅川真里茂

天才津軽三味線奏者の血を受け継ぐ少年。彼は才能に恵まれながらも、純粋な性格が災いして、外の世界に出ようとはしない。彼の純粋な性格や才能に惚れ集まってくる人たちに影響を受け、しだいに社会と交わり成長していく作品です。少年の成長を促すのは、子供からお婆さんまでのさまざまな女性たち。様々な角度から引っ張られて、助けられ成長していく少年の姿をみると、男性はどんな立場や年齢の女性にも心を動かされてしまうのだなと感じます。(山内康裕)

最後に、2014年にはこれが注目!という漫画や、漫画界でのムーブメントがあれば教えてもらえますか?

マンガ表現の拡張という視点から、「音」に着目して活動している二者の今後の展開に期待したい。一つは新しい電子コミックスの可能性に挑戦している漫画元気発動計画主催「Domix」。漫画家集団が主導で制作している音声付の電子コミックスは、アニメとは違う系譜でのマンガの進化の可能性を秘めている。

一方、アナログという観点から、ミエルレコードwithOTOWA「紙巻きオルゴール漫画」にも注目だ。オルゴールの音源となる紙自体がマンガになっており、手巻きで音を鳴らすと同時にマンガのコマも現れるという仕組みは、音楽を聴くスピードとマンガを読むスピードを一致させるという意味で画期的である。

“オープン・パーソン”の平熱感

今、内向型人間に注目が集まっている。

今年5月に刊行され話題を読んでいるスーザン・ケイン著『内向型人間の時代』(講談社)に続き、10月にはジェニファー・B・カーンウェイラー著『内向型人間がもつ秘めたる影響力』(すばる社)が発売され、ビジネス誌でも特集が組まれるほどだ。そこで語られているのは外向的で社交的な振る舞いをする人だけが評価されるのではなく、多くを語らなくともじっくり物事を考え、冷静に判断を下す内向的なタイプの人にもスポットを当てるべきだという提案である。

内向型が注目されているといっても、従来のように会議術やリーダーシップに関するノウハウ本が次々と出版され、ハーバード流、BCG流というような看板を掲げてそれに箔をつけようとする外向型養成の熱もいまだ冷めていない。

そんな中、内向型-外向型の軸には当てはまらない重要な存在に気づかせてくれるマンガが青桐ナツ『flat』(マッグガーデン「アヴァルス」連載)である。

主人公・平介は超がつくほどのマイペース。さらに「コイツが本気になることなんてあるのか?」と思うくらい冷めていて無駄な努力などする気はサラサラない。唯一、彼が好んで自ら行動することといえば、大好きなお菓子を作ることくらいだ。物静かな性格とはいえ、前向きに何かを考える姿勢が見られない平介は内向型の人間というよりも無気力な人間と言った方がしっくりくる。しかし、彼の周りにはなぜか親戚、友人、先輩後輩、そして先生までもが集まってきて活発な交流が行われるのだ。

平和を好み、のんびりとマイペースに生きる平介。そんな彼にも天敵が現れる。後輩の海藤である。海藤は互いが積極的に関わらない友情や、年下を思いやらない年長者(=平介)に大いなる疑念を抱いている。なぜもっと前向きに関係を築こうとしないのか、相手の気持ちを細かく拾い上げようとしないのか。ことあるごとに海藤は平介の態度に注文を付ける。

海藤に叱責され、表面上は平静を保ちつつも悩む平介。最初は自分の行動のなにが問題なのかすら気づかない。だが周囲との関係を振り返ることで「ああ、そういうことか」と自覚していき、そして得た結論は「このままでいいのでは」というものである。悩む平介と並行して海藤は崩壊していく。自分が理想とする積極的な人物像を平介に押し付けることで、彼を見下していたということに気づいたり、自分が考えていた以外にも友情や信頼関係にはいろいろな形態が存在することを知ってしまうからだ。

『flat』が提示するのは積極的に他人に働きかける外向型人間と、一人での熟考を好む内向型人間だけでは定義づけられない個性をもった人間がいるという視点である。それは社交的な振る舞いをとったり沈思黙考したりするのではなく、自覚なく周囲の人を惹き付ける性質を持っている存在だ。そうした人は外向型、内向型双方が周囲にいたとしても、それぞれに偏見を持ったり優劣をつけたりするような判断はせず、どちらのタイプも受容することができる。

社会学者アーヴィン・ゴフマンはこうした性質を持った人を「オープン・パーソン」と呼んだ。皆さんの周りに、よく道を聞かれる人、すぐに子供が懐く人は居ないだろうか。そういった人に共通するのは相手に警戒心を抱かせず、話しかけやすいオーラを放っていることである。例えばイヌを散歩させている人、幼児や老人などは人から気軽に話しかけられやすいオープン・パーソンだとされている。

平介は一見、消極的で無気力な存在のように思われる。だが、彼が無自覚に持っているのは、周りに人を集め、気兼ねないやり取りを成立させるオープン・パーソン的性質なのだ。外向型人間、内向型人間それぞれの能力を高める方策はビジネスの現場において非常に重要なことで、それによるメリットもわかりやすい。だが、クリエイティビティを高めるために人間の性質を二分し、それぞれに処方箋を出す一方で、多様な人々が協働する組織において欠かせないのは、まったく性質の違う人の間を取り持ち、潤滑油やハブの役割を果たす平介のような人物なのである。

現代のビジネスシーンにおいては内向型-外向型問わず、常にクリエイティブに、前向きになることが求められる。しかし、それだけが個人の価値や存在意義を決める軸ではない。そう、平介のような存在をその条件だけで排してしまっては組織が上手く機能しないのだ。

『flat』はそんな二者択一の行き詰まりをやんわりと否定する、“平熱感”の重要性を教えてくれる作品だといえるだろう。

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文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。

「与えられなかったもの」の処世

大学生の就職活動が本格化し、景気の回復期待で転職も活発になっている。多くの人が自分の好きな分野で才能を発揮してお金を稼げればと思っているだろう。だが、必ずしも自分の好きなことに関する才能を持ち、それでお金をもらえるようになるとは限らないのが現実だ。自分の進みたい分野に才能がないとわかったとき人はどうするのかーーこんな問いを考えさせてくれるのが、画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホとその弟、テオドルスの兄弟を描く穂積の『さよならソルシエ』(全2巻、小学館)だ。主人公の姿を通じて、読者は自らの抱える心の闇を垣間見るのだ。

『さよならソルシエ』は「月刊フラワーズ」で連載され、11月上旬に最終巻が発売されたところ。「ひまわり」など後生に残る作品を描きながらも生前には評価されなかったとされるヴィンセント・ヴァン・ゴッホとのその弟、テオドルス・ヴァン・ゴッホの二人の人生を、『式の前日』で注目を集めた穂積がやわらかな線で描いている。

史実にフィクションを織り交ぜるというのはマンガの常套手段だ。だが穂積氏は「史実」を大胆に解釈し、兄弟二人ーー「絵を描く」という才能を与えられたものと、与えられなかったもの――が愛憎入り交じる思いを抱えていたのではないか、と読者に示してみせた。

しかも作者が主人公にしたのは、弟のテオドルスだ。彼は作品中、「画家になりたくてなれなかったもの」と描かれる。しかも近くで自分より才能にあふれた兄をみてしまったがゆえに、だ。19世紀のパリを舞台に、様々な画家が新しい表現対象に挑戦し、新しい芸術が花開こうとする前向きな空気に全体があふれているからこそ、「与えられなかったもの」の闇は濃く描かれる。黙々と絵を描くヴィンセントに、努力をしても追いつけないーーテオドルスが画商として実績をあげるほど、ヴィンセントとの断絶は大きく見えてくる。

人は少なからず、才能あるものーー特に自分がほしかった才能をもつ人ーーに嫉妬と憧れという矛盾する感情を持つ。スポーツやアート分野で、トレーニングをした人の全員がプロになれるわけではない。一般企業に就職する人も、全員が希望の会社や職種、配属先にいけるわけではない。才能がなくてその道をあきらめたあとも、才能あるものが活躍していたり、逆に才能を発揮しきれていなかったりすると、「なぜ自分ではないのか」という想いと闇が心の中に芽生える。

しかし現実ではその嫉妬心や心の闇とうまくつきあい、別の分野で能力を発揮していくものだ。これは心理学的には「昇華」とよばれるプロセスで、作品の中でもテオドルスは、周囲を魔法のようにまきこみ、見事な手法で兄のヴィンセントを売り出していく。画家になりたかったという思いを抱えつつ、画廊で絵を売ることで才能ある人たちの後押しをするところに自分の居場所を見つけている。才能ある人を憎んでしまうところ、うまく居場所を作ることで昇華したのではないだろうか。

現実社会でも迷いと後悔、そして「与えられたもの」への嫉妬を抱えながら日々を過ごす人のほうが圧倒的に多い。だが自分の才能のなさをほかの人にぶつけていないか、別に努力できる分野はないか、自分の才能はどこにあるのかーーこの作品を読むことで、読者は自分の進む道を考えるきっかけになるのではないだろうか。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

「虚親化」という、現代の新たな現象をめぐって

レンタル友達、レンタル恋人、レンタル家族。以前なら「レンタルする対象じゃないだろう」という反応が大半だったこうしたサービスに対し、私たちの心理的なハードルは下がりつつある。違和感を覚えながらもどこかでそれらが存在することを許容しているのだ。このようなサービスが成立する背景には、日常生活を送る中で発生する周囲とのつながりから、面倒くささを引きはがし、メリットだけを取り出そうという意図がある。

一方、マンガにおいてこうしたサービスと真逆の世界を提示しているのが、本来成立しないところに面倒くささを多分に含む親密な関係が発生する「虚親化(きょしんか)」を扱う作品群だ。これらのマンガの特徴はまったく関係のなかった人物同士が、ある出来事やルールによってあたかも恋人や家族のような役割を演じ出すところだ。奥山ぷく『Baby, ココロのママに!』(ほるぷ出版、WEBコミック「コミックポラリス」連載)もそんな作品の一つである。

主人公・路地静流(ろじしずる)は恋愛経験もない大学生。憧れの女性・奈々への接近をいかにさりげなく演出するか悶々とし、想いをショートポエムに綴ってしまうほど他者との関係づくりが苦手な性格だ。そんな静流がいきなり公園で幼児・米田(まいだ)にしがみつかれ「ママ」と呼ばれる。どんなに振り払ってもついてくる米田。だが、仕方なく米田の相手をするうちに、彼女が奈々の親戚だということがわかったり、彼女が通う保育園のイベントを通して園児と親しくなったりと、気づけば彼の周りにたくさんの関係が立ち上がっていく。しかし、こうした展開の中で、当然発生するはずの育児による負担や人間関係の面倒くささは不思議と読者に伝わってこないのだ。

確かに作中で静流はもがき、面倒くささと戦っている。それなのに、その姿勢が本人も知らないところでプラスの効果を生み出してしまい、ストレートに読者に届かない。奈々に近づこうとあたふたする静流を見て友人は彼を「面白いヤツ」認定する。真剣な彼の行動はその不器用さから周囲に「面白い」と受け止められてしまう。同様に米田に絡まれる度に、いやいやながら相手をする静流の姿を見た奈々は彼の背中に父性を見出し、あわや告白というシチュエーションにまで至る。思わぬところで面倒くささに変異が起こり、静流と周囲との距離が近づくことでそれぞれの感情が変化していくのである。

一人であれば気を遣わなくていいことも、友達がいると衝突や離反などの面倒くささが発生する。恋愛となると嫉妬や独占欲が生まれてさらに束縛が強化される。結婚は特定の相手と添い遂げる責任を引き受ける契約であり、さらにその先には子育てという未知の世界が待っている。当然これらには負の面だけが存在するわけではないが、人間関係が深化し、課される責任が増加してくるに伴い面倒くささのレベルもエスカレートしていくはずだ。子育てを扱う東村アキコ『ママはテンパリスト』(集英社、愛蔵版コミックス)や二ノ宮知子『おにぎり通信』(集英社、「You」連載)において、秀逸なコメディーが繰り広げられる隙間から滲み出してくるのはそうした現実である。

そんな中『Baby, ココロのママに!』のような「虚親化」を扱う作品が面倒くささを感じさせないのは、その世界が完全なフィクションだという安心感があるからだろう。読者は、いきなり自分に子供のような存在が現れたり、魅力的な異性がアプローチして来たり、豊かなコミュニティに受容されるとったイベントは起こりえないと信じている。だからこそ気楽に作品を味わえるのだ。

だが、本当にそうだろうか。実は静流が巻き込まれるような面倒くささは完全にフィクションとして私たちから切り離されているわけではない。というのも世の中のリアルな関係の大半は計画的に発生しないからだ。友人はちょっとした会話から意気投合してできてしまうし、恋愛も意中の相手以外からアプローチされて始まることがある。結婚は成り行きで決まったりするし、計画外に子供ができることも珍しくない。

このようにフィクションと信じきっていた世界と実生活との間に想定外の接点が生じる原因は、本作品に描かれている面倒くささの変異であり、さらに引けば関係の先にある相手や周囲の反応の不確かさにある。負担を引き受け、苦労している、もがいている人の姿がそのままネガティブに相手に伝わるわけではない。それらが相手によって頑張っている、粘り強い、親切だというプラス評価に変異し、受けとめられることで互いの間に親近感や愛情が生まれるのだ。

レンタル○○は親密なつながりに含まれる面倒くささを分離し、楽しさやにぎやかさ、暇つぶしといった効果だけを残すことで経済性に優れた関係を提供する。品質が保証されているので利用者は確実に自分が希望したサービスを受けることが可能だ。対してリアルに継続し、深化していく他人との関係、家族との関係にはそもそも品質という概念が存在せず、多くの面倒くささが伴う。しかし、そこには計画的に進められず、品質が保証されていないからこそ負担が突然プラスに変異し、意外な結果が得られる可能性が生じるのである。私たちがレンタル○○と聞いて覚える違和感は、他者との関係に経済性を求める態度に対する疑いであり、偶然性に対する期待でもあるのだ。

安心感を持って読み進める読者に対し、非経済的な関係とそこから生まれる偶然性の価値を忘れさせないための密かな裏切を演じる。それが「虚親化」マンガの役割なのである。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。

オリンピックと併走する日本の現実

「第32回夏季オリンピック大会の開催地は… 東京!」

深夜の発表にも関わらず、多くの人がその瞬間に関心を寄せ、TwitterやFacebookには次々と歓喜の声が書き込まれた。行く末のわからないことがあふれる現代で7年後に催される世界的イベントが決まる。その事実は大会の内容そのものよりも私たちを安心させるには十分だった。

このニュースは、前回の東京大会がそうであったかのごとく高度経済成長再来の夢を見させる。しかし、私たちはこうした華々しい話題と並行して起きる絶望的な状況にも薄々気づきつつある。それは、国土の荒廃だ。

2年前、国土交通省が“「国土の長期展望」中間とりまとめ”として発表した資料は関係者だけでなく多くの人々に衝撃を与えた。2050年、人口が現在より増加する地域は全国の1.9%しかなく、逆に現在の半数以下に減少する地域が65%以上を占めるという事実。これを国が公表することは、国土の衰退を認めざるを得ない時期に来ていると受け止められたからだ。

発表は確かに衝撃的な内容であった。一方、深刻な予見を突きつけられながらもどこか自分の身の回りではまだそれを感じられない。ゆえにやり過ごす、未来に丸投げする、そんな他人事の受容だったようにも感じられた。しかし、2年を経て私たちの心にはいくつか思い当たる小さなしこりができ始めている。そう、この衰退は知らず知らずのうちにジワジワ浸食してくるものなのだ。

荒廃を描き出すのは予測データだけではない。鈴木みそ『限界集落温泉』(エンターブレイン)は伊豆山中の旅館を舞台に地域の衰退と向き合う人たちの姿を扱ったユニークな作品である。ゲームクリエイターの道をあきらめた主人公・溝田。廃業した温泉宿に迷い込んだ彼が、なぜか集まってきたネットアイドルやオタク達の力を借りて宿を再興、地域産業の拠点にしていくというのがそのストーリーだ。

こう書くといかにも軽薄なストーリーと萌え系の絵柄が想像されるかもしれない。しかし根底にある視線はいたって冷静である。作者の鈴木は前作『銭』(エンターブレイン)をはじめとし、徹底的な取材に基づいたリアルな世界を描くことに定評がある作家だ。多少の脚色やコミカルな表現はあるが物語の中で提示されるのは、無い袖は振れないという事実と、無いものを補うには身近な人材と知恵をフル活用するしかないという地道な解決策だ。

このような地に足の着いた解決策は2013年4月に発行された『まちづくり:デッドライン』(木下斉、広瀬郁/日経BP)のような専門書にも通じる。困難の中で荒廃にどう立ち向かうのか。町はどの程度の規模で維持可能か。地域にある資産をいかに循環させるか。厳しく言ってしまえば撤退戦にどう挑むのか。現実を踏まえながら具体的な手法を積み上げていく内容は、鈴木が『限界集落温泉』で描いたルートをなぞる。

溝田は考える。果たして自分たちが持っている有効なコマは何か。そして思いつく。ボロさ、薄気味悪さ、未開、不便がここにはある。ケータイの電波が完全に届かない環境なんて、実は都会で暮らしているとほとんど手に入らない貴重なものなのだ。

最初は自分の居場所(寄生先)を確保することだけを目的としていた溝田の関心はより広く複雑な問題へと向けられていく。一軒の宿が抱えていた問題が次第に地域の、町のそれと絡み始めるのだ。とはいえ、溝田が聖人君子や敏腕経営者といった雰囲気では無く胡散臭いペテン師のように描かれていたり、単なるサクセスストーリーとして終わらないのは、この物語を現実と完全に乖離した虚構にしたくないという意図の現れであろう。

無論、現在進行形で真剣に地域おこし、町おこしに携わっている人からすると「こんなに簡単にはいかない」といった意見や、自分達の地道な活動をマンガが面白おかしく描くことに抵抗もあるだろう。しかし、作品を完全に否定できず、なにか共感を覚える箇所があるとすれば、それはジワジワ迫ってくる荒廃に対し、巨額の補助金を獲得しようとか、新たな企業を誘致しようという大文字の方策でなく、自分達のできる範囲で知恵を絞り、自走するモデルを目指す姿が描かれているからだろう。この作品はそうした理想を描き努力を重ねている人たちの心にこそ響くのである。

オリンピック開催が決まり、高揚する雰囲気に水を差すつもりは全くない。いや、それが決まったからこそ私たちは7年後、この国がどうなっているかという現実と真剣に向き合い、そこに自分を置かなければいけないのだ。きらびやかな話題の裏でジワジワ迫り来る荒廃は日本各地で生活のすぐ傍に現れてきている。もしこうした現実から逃げず、最高のもてなしで各国の人々を迎えることができるなら、身の丈で振る舞う実直な日本の姿を誇りとともに発信できるはず…。私はそこに夢を見るのである。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。

サードプレイスとの距離を問う意外な宮廷漫画

昨今、複数の肩書きや名刺をもっている人は珍しくなくなり、本業で培った経験や技術を活かして社会貢献活動を行うプロボノの存在もそれを加速させている。昨年ビジネス書ランキングで上位に食い込んだリンダ・グラットン著『ワーク・シフト』(プレジデント社)やちきりん著『未来の働き方を考えよう』(文芸春秋)で繰り返し触れられているのは、必ずしも一つの職業を定年まで全うするのではなく、複数の職業を兼務して働くワーカーの存在だ。そんな人たちの受け皿として組織や立場を越えて意見を交換し、本業以外で自分が本当にやりたいことをするための空間、サードプレイスが改めて注目を集めている。

本来サードプレイスとはファーストプレイス=自宅、セカンドプレイス=職場、以外の居場所のことだ。ある人にとってはカフェやバーであったり、またある人にとっては図書館やダンス教室であったりとその空間は人により異なる。唯一存在する条件は、自分らしさを取り戻せる居心地の良さを備えていることだろう。

こうした現代のサードプレイスを意識させるのが久世番子著『パレス・メイヂ』(白泉社/「別冊花とゆめ」連載)だ。

時代は日本の大正にあたる頃。舞台は宮廷(パレス・メイヂ)。主人公御園は美しき少女帝彰子に仕える侍従職出仕である。彼の仕事は帝の生活の空間である「奥御座所」と執務の空間「表御座所」をつなぐ渡御廊下を行き来し、物や情報を受け渡すことだ。この廊下を行き来できるのは帝本人と成人していない数名の少年出仕たちのみ。女の空間「奥」と男の空間「表」をつなぐ廊下は帝にとっての中立地帯といえる。

彰子は先帝亡き後、幼き皇太子が元服するまでのつなぎ役として即位した。本作品の設定では帝位についた女性は結婚を許されず、終生宮殿の中で暮らすことを強いられる。しかし彰子は少女でありながらもそれを受け入れ、公務をこなし、周囲に希望を与え続ける象徴としての帝をつとめあげる。

そんな彰子にとって渡御廊下は帝としての役割から解放され、少女の自分に戻るごくわずかな時間を与えてくれるサードプレイスとなっている。そしてそこで本当の自分を引き出してくれる存在が御園なのだ。

また、御園にとっても即物的で拝金主義の兄や姉がいる自宅、それぞれのプライドと守備範囲を固めようと懸命になる「奥」や「表」から切り離なされた廊下は、彰子を想い、真摯に意見を言える大切なサードプレイスとなっている。

ただ、この作品は、サードプレイスでの2人のやりとりを描くだけでなく、さらに深く居場所としてのサードプレイスについて考えさせる内容に展開する。

彰子は帝として宮殿という籠に閉じ込められている一方で、自分が「寵愛」という形を用いて誰かを閉じ込めることができると知る。そうすれば御園が成人したとしても自らの傍に置くことが可能だ。だが、彰子はそれを選ばない。自分を解き放つために御園の存在を求めることは、即ち彼を束縛することに他ならない。彼女は自由がきかない立場だからこそ他人の自由を奪うことを嫌うのだ。

苦慮の上、御園に暇を出す彰子。しかし、彼は力強く告げる。

「私は籠の鳥にはなるつもりはありません! 陛下のお側で陛下が少しでも楽しくお過ごしになれるような籠になりとうございます!」

これはたとえ彰子が退位し、廊下を渡ることが無くなろうとも自分がそのかわりとなり、サードプレイスとして彼女が本当の自分に戻れる場所になり続けようという強い意志の現れだ。

この言葉は私たちを「サードプレイスはただ与えられるだけのものか」という問いと直面させる。私たちは自宅と職場の往復の中で、自分自身を解放する場所、時間を十分作れているだろうか。そして自分の言葉で考え、身の丈で語れているだろうか。さらにそうした自分自身の渇望、充足とともに、自身が誰かのサードプレイスになれているだろうか――このような省察がここから立ち上がる。そう、サードプレイスとは私たち自身が獲得し、再生産していくべき存在なのである。

『パレス・メイヂ』は単に宮殿における少女帝の恋愛やしきたりを描くだけではなく、その深部で「自分の居場所」を探し求めている現代人に対し、様々な示唆を与える重層的な作品になっている。果たして私たちは彰子や御園のように聡明な振る舞いができるだろうか。

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花とゆめonline(よみきり・最新話)

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。

矛盾、空虚、曖昧。日本文化の原点的鑑賞法を可能にする装置

奏でられる音符、歌われる言葉ーー音楽は確かに耳で感じ取るものである。だが、一方で私たちは音そのものを楽しむだけでなく、それを演奏している、歌っているアーティストと紐つけながら楽しんでいることも事実だ。しかし、もし音楽を提供する主体としてのアーティストの存在が不確定で曖昧だとしたらどうだろうか。それが「さよならポニーテール」(以下、さよポニ)だ。不確かなことがかえって彼らの存在への想像力をかき立てている。

さよならポニーテールは2011年10月にアルバム『魔法のメロディー』でメジャーデビューを果たした音楽ユニット。その活動はネット上に限られ、ライブはまったく行わない。メンバー同士も一部を除いて互いに面識がない。ファンは本当に公式アナウンスされているメンバー構成なのか、ユニットが目指すところはどこなのかなど、不確かな土壌の上で彼女たちの活動を見守っている。

さよポニをご存じない方の中には「さよポニって何?」「正体は誰なの?」と検索をかけた人もいるだろう。

私たちは常に「○○は××である」と言えるよう記号に意味を充填する。眼前にわからない対象が現れた途端、ポケットからケータイを取り出し、検索をかける。そして正体を突き止めて安心する。それだけわからない対象に意味づけできないことへの恐怖感が日常にあふれているのだ。

だがもともと日本文化とは、ロラン・バルトが『表徴の帝国』のなかで西洋を「意味の世界」、日本を「表徴(記号)の世界」と位置づけたように、「記号に確固たる中身がない。それでも豊かに存在する」ものだった。それは世界を切り分け百科事典化するキリスト教的世界観と、世界の複雑さを複雑なまま受け入れようとする仏教的世界観の違いと言い換えることもできる。自分たち西洋人が長い時間をかけて必死に議論し、弁別し、定義づけてきたものは何なのかと、バルトは日本文化の形態に驚いたのである。

この日本文化独特の空虚さは、まさにさよポニ世界の特徴を言い当てている。ファンは音楽を通じてさよポニを知る。しかしその実態は空虚だ。名前や役割が存在しても、それを理解するには圧倒的に情報が少なすぎるし、何よりその背後に固着した意味があるという保証はない。中身が入れ替わろうと誰も気づくことはできないのだ。

音楽と同時にその世界を知るために重要な存在となっているのがマンガ3作品だ。写真など実体を裏付ける情報が全く存在しないさよポニの世界では、ファンはマンガに描かれたキャラクター、背景によってはじめてその世界を視覚的に同定することができる。最新作『星屑とコスモス』(集英社)はファンタジーと現実が入り交じる世界でボーカル3人の学園生活や恋を描く。日常の傍らにいるような、遥か遠くにいるような不思議に変化する距離感が本作品の魅力となっている。

だが、3作品のマンガが必ずしも連続性をもち、音楽世界にぴったりと寄り添っているわけではない。彼女達の日常を描いた第1作『きみのことば』。だが第2作『小さな森の大きな木』は異世界を舞台としており圧倒的にファンタジーの要素が強く、両者間に大きな断絶が存在する。そして3作目の『星屑とコスモス』(別冊マーガレット増刊「bianca」他、掲載)ではまた日常生活に近い世界で話が進んでいく。なぜこのような断絶やより戻しが起こるのか、さよポニ側から一切の説明も無く音楽とマンガの微妙なリンクは続いている。

もたらされる曖昧な設定や断絶。しかしそれは混乱や失望を生むのではなく、まるでさよポニから独自の鑑賞世界のつくりかたを提案されているように感じられる。受け手は与えられる情報を集積するのではなく、自らの想像力をもってより主体的にさよポニの世界を補強し柔軟にその世界の変化に対応していかなければいけない。それはさよポニの世界に自己投影し親和性を高めることに他ならない。

想像力ーー私たちはこの単語を前にすると言い表せないむず痒さを感じる。幻想や妄想と同義として使う場合、どうしても現実と乖離しているというネガティブな面が主張し、公に語ることがはばかられる。にもかかわらず、それを完全に否定することができないのは、自分の中に自分だけの世界を作ることへの憧れを捨てきれないからなのだろうか。

さよポニは軽やかに、誰でも調べればわかる意味で構成された世界ではなく、記号をつなぎとめるためのエーテル(空想)で満たされた世界へと私たちを誘う。恥じらい無く想像力を開放するフィールドがそこにはある。

日本文化は本来、矛盾や空虚、曖昧といった世にあふれる説明がつかない事象を自分の想像力で埋めることで自分なりの世界を作り、堪能することで形成されてきた。

さよポニは現代において同様の鑑賞世界を私たちに与えてくれる装置なのである。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。

結婚は愛情だけでなく生活の手段の一つである

20~30代女性が一度は関心を示すであろう「婚活」。この一大テーマにとうとうマンガが向き合い始めた。『逃げるは恥だが役に立つ』(講談社、海野つなみ作)がそれだ。「生活のための手段としての結婚」を求める女性側がきっかけになって結婚生活を始めた2人を、海野氏流の丁寧な言葉で心理を描き、かえって他人と暮らすよさを伝えている。

『逃げるは恥だが役に立つ』は女性向けの月刊誌「Kiss」で連載中で、6月中旬に第1巻が発売された。主人公、森山みくりは大学院を出たものの就職先がなく、派遣社員として働いていたところ勤務先の都合で派遣切りにあう。父親の部下の家で家事代行サービスを請け負うも、家族が引っ越すことに。そこで住み込みで家事代行サービスをするために雇い主と共謀し、事実婚を偽装することにした。

ここで読者の前に示されるのは、いささか極端ながら「恋愛以外の結婚までのルート」である。

婚活という結婚へのルートは、結婚を意識する男女にとって大きなテーマになっている。昭和期までの結婚観は「男女ともに一定年齢までに結婚するもの」だった。社会的プレッシャーや周りのお膳立てもあり、特に結婚のために特別な活動をする必要はなかった。女性の仕事場が限られ、「女性は25歳までに結婚して家庭にはいるのが当たり前」といわれていた時代、女性にとって結婚とは生活の手段のひとつであり、父親の庇護から夫の庇護に移ることだった。男性にとっても一人前の社会人と認められるために、結婚は不可欠で、パートナーの女性が必要だったのだ。

だが現代、女性が仕事を持ち、働き続けることは当時よりも容易になった。未婚の男性も半人前とは見られなくなりつつある。彼らにとって結婚は、経済的・社会的保証ではなく、愛情ある相手との半永久的なつながりの維持となった。だからこそ「この相手でいいのか」と結婚相手に迷うことが増えている。

この現状に、マンガの中の結婚の描き方は追いついていなかった。従来は「ときめきトゥナイト」「恋愛カタログ」(ともに集英社)など好きになったもの同士がつきあえば、当然結婚または永遠に一緒にいることを意識させられるか、「ぽっかぽか」(講談社)のように結婚後の夫婦の課題を描くことが一般的だった。その間に存在するはずの「結婚までのノウハウ」はすっぽり抜け落ちていたのだ。読者、特に女性は、現実には恋愛即結婚ではないことに気がついていたのに、である。

結婚までのルートを模索する読者に「結婚は愛情だけでなく生活の手段の一つである」と示したこの作品はどう受け止められるだろうか。もちろん「現実にはありえない」と反発もあるだろう。だが、きちんと読むと他人と暮らすことのよさを実感できる。結婚も悪くない――そう思えるほど、海野氏は細い線のきちんとした絵柄で淡々と登場人物らがきちんとお互いの思いや考えを伝えあいながら、穏やかな日々を暮らす様子を描いている。海野氏が丁寧に選ぶセリフは、結婚を考える人にも結婚に懐疑的な人にも刺さるものがあるだろう。回り回って、読者の結婚を後押ししているのだ。

結婚に対する社会的な圧力が減ったいま、20~40代の適齢期にある世代は、「何のために結婚するのか」と悩んでいる。そしてほかの人がどう考えているのか気になっている。ネットの結婚情報サービスを使って結婚に至った過程を描いた『31歳BLマンガ家が婚活するとこうなる』(新書館、御手洗直子作)がヒットするなど「結婚までのノウハウ」は女性にとって(もしくは男性にとっても)、他の人の事例をのぞき見したい分野のひとつなのだ。

結婚しなくてもいい時代になぜ結婚するのか。そのためにはどうすればいいのか――こう思う読者にとって、結婚が運命づけられている恋愛やすでに結婚した夫婦を描くだけのマンガでは満足できない。「マンガのなかの結婚」は読者の欲求に答えることで転換期を迎えている。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

今あなたが知るべき漫画家・田中相とは、誰なのか

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“これからの日本の漫画家”といえば誰だろう?それは、気鋭の漫画家のひとり・田中相。2010年3月に創刊された講談社の「ITAN」(隔月誌)で鮮烈なデビューを果たした若手漫画家だ。2011年7月に短篇集『地上はポケットの中の庭』を発売し、現在は『千年万年りんごの子』をITANに連載している。そして、平成24年度 第16回文化庁メディア芸術祭では『千年万年りんごの子』がマンガ部門新人賞を受賞。その圧倒的な画力も紡がれる物語も、全てにおいて注目の漫画家なのだ。

この記事では、インタビューを通して田中相とは一体どのような人物なのかを明らかにしていく。

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『千年万年りんごの子』1巻、2巻

ずっと「マンガは描けない」と思っていた

漫画家になろうと思ったきっかけは?

母と伯母がマンガ好きで、水野英子さん、山本鈴美香さんや和田慎二さんなどの少女漫画がたくさん本棚に並んでいました。子どもの頃からマンガが身近な存在で私も大好きでした。小さい頃は漫画家になりたいなと考えていたんですが、真似事をするうちに「自分では無理そうだ」と思うようになって。高校の時には既に「漫画家になりたい」とは考えなくなっていました。もちろん、ずっと憧れはありました。

意外ですね。なぜ?

私には姉が一人おりまして、高校生だった姉は清水玲子さんが大好きで絵をそっくりに描けるほどで。それが本当に上手で「私はできない」と思っていました。マンガの形式にしてもコマを割り始めたものの完成させることができず、という感じで。よくあるタイプかな?(笑)「見る」と「やる」とでは大違いですね。だから、通っていた高校のデザイン科を卒業したらそのまま就職して働こうと思っていたんです。でも、結局は美大を選びました。

ai-tanaka3小学生の頃は『ドラゴンボール』の神龍を描くのが得意で、クラスの男子に頼まれることも多かったという田中さん。

そこからどうして美大へ?

ちょっと時間の猶予が欲しくて……親には申し訳ないのですがモラトリアムというか(笑)。短大でいいから美大へ行こうと画塾へ通いましたが、そこから大きく変化したと思います。この画塾の先生にはすごく影響を受けましたね。そして先生から「美大へ行かなくとも絵はかける、それでも受験するなら4年制の大学を目指してみては」とアドバイスをいただいて、その先生の母校を目標にすることにしました。

どんな先生だったのでしょうか。

お恥ずかしながら当時は「自分は絵がうまい」なんて考えていたんですよ(笑)。でも画塾でデッサンの講評会をした時にその自信が崩れ落ちました。その後は、素直に自分は下手なんだと自覚できているので大変ありがたかったです。印象に残っているのが「田中は途中であきらめている。もっと観察して、最後まで描き上げることができたはず」と言われたこと。自分は終わったと思っていても「もっと見ろ!」と言われるんです。もう描く所なんて無いと思うのに、さらに見て描く。しがみつくというか、粘りみたいなものを勉強させてもらいました。

そして、その先生は「大学受験の後のこと」についていつも話していました。画塾は受験で受かるための勉強だけをするイメージですが、精神的な部分も含めて、続けていくための考え方も先生から学びました。

初めてマンガを描いたのは同人誌

美大を卒業してからはどうしていましたか?

今はもう辞めてしまいましたが、デザイン業務やイラストを描きながら10年くらい働いていました。働いている当時、私が大のマンガ好きと知っている友人に「マンガ、描いてみないの?」と言われていましたが、なんとなくそのまま過ぎていました。でも、同人誌を出している友人と一緒ならページ数も少なくて済むし、責任感が生まれてやる気になるかも! と思い立って最初の同人誌をコミティア(オリジナルジャンル限定の同人誌即売会)に出してみたんです。これが初めて描いたマンガですね。

最初の同人誌を作ってみて、いかがでしたか?

「いいものが出来た!」というわけでもなく「ああ、終わったな」という感じです。手探りで描いてみて、コミティアに来た人が買ってくれるのがすごく嬉しかったです。そこで、のちにお世話になることになるITANの編集さんに声をかけていただきました。

ai-tanaka4同人誌「mabatakihasorekara」

ai-tanaka5別の同人誌の中には自画像の原型も。この時はこのマンガのためのキャラクターだった。

そこが商業誌デビューのきっかけだったんですね。

その時は名刺をいただいただけで何も進展はありませんでしたが、2009年11月に出した二冊目の同人誌「mabatakihasorekara」を同じ編集さんが買っていかれたんです。帰り際に「これをスーパーキャラクターコミック大賞に出していい?」と聞かれて、私も軽いノリで「どうぞー」と答えたら、ある日「大賞です!」という電話がきて……その時はよく意味がわかりませんでしたね(笑)

コミティアや同人誌のつながりは、今もすごく大切なお友達だとか。

はい。今は隔月連載で余裕が無く同人誌は出せていませんが、続けている友人はいるのでコミティアが開催されるとみんなに会いに行っています。本当に元気をもらえますね。私の他に商業誌デビューした友人もいますし、元々プロだった方もいます。色々なつながりに支えてもらっています。

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ai-tanaka7『地上はポケットの中の庭』には、初の同人誌に掲載した処女作「5月の庭」も収録されている。

ai-tanaka8ITANの壱号にも掲載された「ファトマの第四庭園」。衣服の緻密な描き込みに魅了される/『地上はポケットの中の庭』より。

マンガは模索しながら描いている

田中先生の作品では、人物・自然・昆虫・動物から布の柄まで繊細に描かれています。それは画塾の先生の教えが生きているのでしょうか?

うーん、そうかも? 散漫に描くのではなく狙いを絞って、というのは言われたことですし意識しています。マンガは1ページで平面構成の要素もありますしね。モチーフが目の前にあれば詰めて描けますが、マンガはそこに無いものを描くことも多いので、それが大変かもしれません。

ai-tanaka9コミックスの装丁は全て本瀬智美によるデザイン。親しい友人ということもあり、装丁は相談してもらいつつ進めた。

子どもの時も、美大でも、大人になってからもマンガを描いていなかったとおっしゃっていましたが、1枚絵のイラストには無い“動き”も重視されるマンガをなぜ、ここまで素晴らしく描けるのでしょうか。

全然素晴らしくはないですよ、できてないことばかりです! まだまだ暗中模索しています……。私はコマが割ってあってその中にギュッと絵が入っているマンガの形態が好きなようです。色々試したり考えることはありますが、自分の好みでやっているだけかも。でも、読みやすく混乱させないコマ運びにはなるべく気をつけています。

描いていて楽しいものは?

木、花、蔦、特に楽しいのは手。手は描いていて楽しいです。手と髪の毛はフェティッシュに好きです。逆に苦手なのは建築物。パースペクティブがきちんとしていないと、傾いて見えちゃいますもんね。家など建物を描く時はアタリとなる3Dを簡単に作ってから、それを下書きにして描くこともあります。パースをとるのも、空間認識も昔から弱くてですね(苦笑)。

ai-tanaka10髪の毛も躍動感をもって描かれる/『千年万年りんごの子』1巻

ai-tanaka11手で表現される、重要なシーン/『千年万年りんごの子』2巻

普段のマンガの描き方について教えてください。

まずはA5のコピー用紙に1枚につき1ページとして鉛筆でネームを描いて、スキャンしたものを担当編集さんに送ってチェックしてもらっています。GOサインが出たら、スキャンした状態のネームを123%に拡大後、プリントアウトしてライトボックスの上で原稿用紙に写して青のシャープペンシルで下書き、それをペン入れしスキャン、最後にコミックスタジオ(マンガ制作ソフト)でトーンを貼り仕上げています。

ai-tanaka12田中さんは「本当は毎日9時間くらいは寝たい」と、かなりのロングスリーパーのようだ。好きな食べ物はチョコレート、嫌いな食べ物はバナナ。

最後に、PingMag読者に向けてメッセージをお願いします。

私は「たくさんの人に自分のマンガを読んで欲しい」と思っていて、これまでは女性読者が多いのかなと考えていました。でも、2013年5月に新宿で催して頂いた『千年万年りんごの子』のサイン会では性別を問わず、しかも若い方から年配の方まで、色々な方に来ていただけて本当に嬉しくて。もっともっと多くの方に自分の作品が届いたらいいなと思っています。

いずれ海外版を出すことができれば嬉しいですね。世界中の人に届いて欲しいです!

ありがとうございました!

ai-tanaka13今回のインタビューに際してオリジナルイラストを描いていただきました。
(AYAKA KAWAMATA)
協力:HAPON新宿 http://hapon.asia/shinjuku/

“イエ充”によるお取り寄せ――グルメマンガの今。

自分の家の中でのんびりくつろぐことを好む20代、30代ーーつまり「イエ好きでイエ充」が増えているという。

ネット環境の向上、ゲーム機、好きな番組が見放題のCS放送といった、室内で過ごすためのハードやソフトも年々クオリティが増しており、外に出なくても楽しく暮らすことができてしまう。「イエ充」はもはや止められない時代の流れであり、今後しばらくは続いていくと思われる。

この「イエ充」の空気を象徴するマンガが、今回取り上げる「おとりよせ王子 飯田好実」(「月刊コミックゼノン」連載中)である。本作は、主人公が週1回のノー残業デーに、毎回違うお取り寄せグルメを楽しむというストーリーだ。取り上げられる食品は、北は北海道の「松坂牛大とろフレーク」から南は佐賀県の「蔵出しめんたい」まで実に様々で、読者を飽きさせない。

コミックスは5月20日に第3巻が発売されており、既に累計25万部を突破している。

また連続ドラマ(メ~テレ、ひかりTV、tvkにて放送中)がこの4月より放映され、注目を集めてきた。飯田好実名義のツイッターアカウントのフォロー数は、番組効果もあり現在1万越えとなっている人気ぶりだ。今年の4月4日から10日にかけては、主人公の住んでいる(とされる)吉祥寺の東急百貨店で、物産展とコラボレーションしたイベントが開催され、こちらも盛況だったようである。

「おとりよせ王子」こと飯田好実は独身で一人暮らし、彼女なしの26歳SE男子である。普段は仕事で忙しいが、毎週水曜日のお取り寄せデーと休日はほとんど家にいる「イエ充」だ。彼のお取り寄せ時のテンションの高さと、職場で黙々と仕事をこなす様とのギャップはこの作品の面白さの一つである。

なぜ、この「おとりよせ王子 飯田好実」が今の時代の雰囲気に合っており、多くの人を引き付けるのだろうか。それは、この作品がグルメ描写と共に若者のリアルな生態を丁寧に描いているからだと考えられる。

彼は、ソーシャルメディアを「家の中で人とつながるツール」として効果的に使用して充実した生活を楽しんでいる。飯田の世代は「プレッシャー世代」(1982年~1987年生まれ)と言われている。社会不況などのあらゆる外圧に耐えて育ち、その結果無駄なプレッシャーから逃れる術を身につけている世代とされ、このように命名された。

メールやSNSなどのコミュニケーションツールと共に成長してきた彼らは、人とつながることを強く意識しており、そのための通信費は惜しまない傾向にある。

飯田はお取り寄せの度に、その食べ物についてTwitterでつぶやくことを習慣にしている。そのセンスが光っていたため、彼のフォロワーは一般人としてはかなり多い。Twitterは人づきあいの苦手な飯田にとって、実生活では発揮できない才能を表す場所になっているのだ。

元来のお取り寄せのコミュニケーションとは、遠方からめったに食べられない食べ物を取り寄せ、誰かと分かち合って食べる、という形式である。しかしこの作品では、自分のためにお取り寄せをし、それを見知らぬ人達に披露するという形を取っている。

これはFacebookといったSNSに自分が食べた料理を写真とともにアップし続けることで、結果的に「実名グルメ口コミSNS」が形成される道程そのものであり、かつ現代における新たな「お取り寄せ」のカタチが描き表されていると言っていい。

飯田が美味しそうな料理の写真と詳細な感想を送った瞬間、フォロワーから続々と反応が届く。部屋の中から世界と、見知らぬ人とつながる奇跡と喜び。煩わしいことを回避し、それを享受することができる家の中は、実に籠りがいのある、居心地の良いシェルターなのかもしれない。

これからも様々なお取り寄せが登場し、読者の目を楽しませてくれるはずの『おとりよせ王子 飯田好実』。今後の展開における最大の関心事は、2巻で表出した「父親との確執」だろう。彼が実家を出た原因が親子の不仲にあることは十分考えられる。またお取り寄せによる「イエ充」ライフを始めた理由もそこにある可能性は高い。

今後、父親という彼にとって最大のプレッシャーとどう対峙していくのだろうか? これはそのまま、若者にもあてはめられるテーマではないのだろうか。イエという、己を守る場所から“外”に出る、あるいは“外”と対峙せねばならない時、どう考え行動していくのか。

飯田はすでに社会人として働いているが、そういう意味ではこのマンガは学生 対 社会という見方もできる。社会、親、大人として抱えなければならないプレッシャー……そういった通過儀礼をどう越えていくのか。居心地のいいイエ充ライフは、どうなるのだろうか。

この作品にはお取り寄せグルメやSNSとリアルでの自分といった、現代になって注目を浴びるようになった物事が描かれているが、根底のテーマはどの時代でも大切な「大人への成長」なのかもしれない。

(kuu)

関連サイト
飯田好実Twitter
イエ充って何?NAVERまとめ

「かくあるべし」に抗する判断とそれができる夫婦の関係

政府が導入しようとして問題になった「女性手帳」。女性の結婚、妊娠、子育て適齢期を意識させるよう提案されたが、「なぜ女性だけ」「人に管理される事柄ではない」と反発の声があがり頓挫することになった。

結婚、出産だけでなく、ワークスタイル、家族のあり方も多様化の一途をたどり、過去共有されてきた「○○かくあるべし」といったソフトロー(明文化されない共通の理想)は次第に通じなくなってきている。

第3巻で完結を迎えた米田達郎の『リーチマン』(講談社)は、ワークスタイルや家族形態の多様化という重いテーマを描きながらも痛快で心温まる作品である。主人公、達郎(英訳:リーチマン)はフィギュアの造形師になるべく会社を辞めた専業主夫。そんな達郎を支えるのは百貨店勤務で竹を割ったような性格の妻・トモエだ。

妻が稼ぎ夫を養うといった夫婦形態については様々な意見があるだろう。しかし、私がここで提出したいのは「男女分業かくあるべし」という議論ではない。反対に「かくあるべし」に抗する判断とそれができる関係についてだ。

例えば2人の結婚。会社を辞め国民健康保険料が払えない達郎。激痛の虫歯を抱えながらも歯医者に行くこともできない。そんな達郎の告白に、トモエは「ほんなら…、結婚するか」と応える。

世間で共有されてきたソフトローに照らせば、これはあまりに逸脱性(アノマリー)に富みすぎている。本来なら結婚のような人生における重大な判断はもっと熟考し、周囲に相談したうえで下すべきなのではないかと誰もが思うだろう。

達郎が会社を辞める際も、本来なら実績も計画も無い中で夢を追うのはリスクが高い。案の定、主夫になった後も彼の造形師としての評価は上がらず、苦悶の日々が続く。

だが、2人のアノマリーな判断が必ずしも読者をあきれさせるとは限らない。ソフトローに基づく「夫婦の姿」や「男女分業の姿」とはかけ離れていたとしても、この2人を見るとなぜか共感し、信頼感に心打たれる。

人間とロボットやコンピュータとの違いとは何だろうか。それは「感覚に基づいたダイナミックな判断ができること」だといわれている。もし、コンピュータが前述の結婚や退職に対して、何がより的確な判断かを求められたとしたらどう応えるだろうか――答えは明白だ。

このダイナミックな判断が生み出される原因は人間独特の「身体性」だという。一般的に、脳は身体を統括しており、身体は環境に対してセンサーとアクチュエータの働きをするにすぎないと考えられている。しかし、脳は自らが効率的に判断できるように情報を簡略(言語)化し処理しているに過ぎず、決してすべての情報を満遍なく処理し判断しているのではないという。

一方、身体は環境から膨大な情報を受け止めている。そしてそれは経験として身体に刻み込まれている。雰囲気やノリの察知、矛盾を孕む判断というのはそうした身体に残された情報をもとに行われるというのだ。

こうしたことは以前より指摘されてきた。坂口安吾がいう「われわれの生活は考えること、すなわち精神が主であるから、常に肉体を裏切り肉体を軽蔑することに馴れているが、精神はまた肉体に常に裏切られつつあることを忘れるべきではない」(『恋愛論』)とはまさに身体に基づく判断そのものだ。ただ安吾の時代にはマイノリティーだったソフトローからの感覚的な逸脱は今、決してそうとは言えない状況へと変わってきている。

以前は結婚も仕事もソフトローによる「あるべき姿」と照らし合わせ整合性をとることができた。

それはいわば、脳が処理可能な知識を基に下した距離感である。しかし物語の中で達郎やトモエが行う判断は「損してもやるべき」や「この人なら大丈夫」という感覚を重視して下される。

作中、トモエが帰宅すると「ただいま○○○」「おかえり○○○」と駄洒落で出迎える特徴的なシーンが、幾度となく展開される。これは周囲から見ればまったく意味を持たない遊戯でしかない。

しかし、夫婦にとってはお互いの状態を確認しあうために欠かせない約束事だ。のしかかるソフトローに抗する2人の小さな秘密というと大げさだろうか。

『リーチマン』は生活の多様化の中で懸命に生きる夫婦を通じ、他人に押し付けられるのではなく、自らがスタイルを作り上げていく健気さを実感させてくれる応援歌のような作品だ。私たちはソフトローに屈しない彼らの姿に同時代性を感じ、勇気づけられる。

ましてや達郎とトモエの間にある強くてしなやかな絆。ページをめくるごとに何気ないやりとりから深い愛情があふれ出してくる。そして2人の信頼関係の延長線上に読者は置かれる。いつの間にかヒーローでも美男美女でもない2人を家族のように応援してしまう。

そう、彼らと供に生き抜く感覚こそが本作品の魅力なのだ。

参考サイト
Webコミック「モアイ」

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。

西島大介:「マンガ」の展示はどこまで可能か?

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「マンガ」はどのように展示できるのか――マンガをアート文脈で捉える機会が増える中、美術館やギャラリーでのマンガの展示方法は模索が続いている。4月6日から6月8日まで東京・墨田のマンション内の小さなギャラリー「AI KOKO GALLERY」で開催された、マンガ家・西島大介氏の「『すべてがちょっとずつ優しい世界』展」は、マンガという複製芸術を見つめなおす西島氏の見方を学びつつ、この問いを考えるきっかけになる挑戦的なものだった。

展覧会は西島氏の新作『すべてがちょっとずつやさしい世界』(出版社:講談社、以下「すべちょ」)をテーマにしたもの。同作は、ある村に「ひかりの木」が植えられ、村の住民の生活や環境が変化していくさまを寓話的に描いた作品だ。東京電力福島第一原子力発電所の事故を思い起こさせ、2013年に第3回広島本大賞を受賞した。

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西島大介氏の新作「すべてがちょっとずつ優しい世界」

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床に広がる原画、いすの上の単行本、壁のパネル画と3層に分かれる

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アパートのドアを入るとパネルが迎えてくれる

展示会には最終日の6月8日(土)に訪れた。ギャラリーに入ってまず驚いたのは、「すべちょ」の原画が床一面に無造作に広げられていたことだ。市販のトンボの入ったマンガ用原稿用紙に、ペンで描かれた絵。写植前のセリフが鉛筆で描かれており、「どちらのセリフか迷っています」など、単行本を読んでいるだけでは目にすることのない、一種の生々しいやりとりが見て取れた。しかも、一般的な原画展のように額縁に入っているわけではないので、気軽に手にできる。

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子どもも原稿に興味津々

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原稿を手に持ち、色むらまでしっかり見ることができる

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原画が敷き詰められた床の両側の壁には、西島氏が今回の展示のために描き下ろしたドローイングが飾られており、部屋の奥のテーブルには「すべちょ」の単行本や過去の西島氏の作品も一部、並んでいた。原画はマンガ家が生み出したオリジナルで非常に価値があると考える私には、床に広がる原画は越えられない川のように思えた。だがギャラリストの小鍋藍子さんの「原画を越えて、単行本や新たに描き下ろした作品を見に行ってください」という声に後押しされ、恐る恐る部屋の奥のほうに進み、ドローイング作品や西島氏の単行本を見ることにした。

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部屋の奥にいくには原画を踏み越える必要がある

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展覧会のために描き下ろした作品が壁に並ぶ

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会場では西島氏のほかの作品も楽しめた

額縁に入った作品は、マンガ用原稿用紙を一度ホワイトで塗りつぶし、その上からポスカで描かれている。原稿に比べて色のムラが少なく、西島氏のやさしい絵柄を十二分に味わうことができた。木製パネルに描かれたものもある。

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パネルは小さな正方形。マンガのコマとの違いを強調する

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展覧会のために書き下ろしたパネルに描かれた作品

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額に入った絵では風景も人気だった

西島氏の絵はいまでもすべて手描きだ。特に「すべちょ」における西島氏の絵柄は、彼の過去の作品よりも線が柔らかくなっているように私には見える。彼の絵柄は、非常に記号性が高い。手描きによるやさしさを含有した線で人物造形をデフォルメ化しているからこそ、「すべちょ」のように巨大な力でコミュニティが崩れていく様子など批評的なメッセージをバランス良く描くことができているのではないだろうか。

通常このような展示会にマンガ家本人が参加することは少ない。だが「西島さんをひとりのアーティストとしてとらえ、彼の考えそのものを展示したかった」(小鍋さん)ことから、無料電話ソフトのスカイプで西島氏と話ができる機会も用意されていた。訪れた日も広島にいらした西島氏にスカイプを通じて展示会や作品の狙いを聞くことができた。

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パソコンを通じて著者と対話も

なぜマンガ作品の展示が、今回のような形態になったのかという疑問に西島氏は「そもそもマンガの原画を展示するつもりはなかった」と断言する。一般的にマンガ作品をテーマにした展示会では、その作品の世界に入り込めるものやネームなどメイキング過程を見せることが多い。だが小鍋さんから「アートとして一点ものを作成してください」といわれたことで、西島氏はマンガとギャラリーで扱われることが多いアートの違いを徹底して考えた。その結果「マンガは複製品の単行本が完成し流通することがうれしいが、アートは一点もの。アートはひとりでも気に入った人がいれば売買が成立して価値がつく。関係性がまったく別のもの」(西島氏)との考えに至った。それがドローイング作品の作成につながっている。もともと西島氏のマンガを知らなくても、ふらりと訪れた人が純粋にひとつのアート作品として気に入ることもあったという。

実は過去に、出版社が西島氏の原稿を紛失したことがある。そのとき版下データさえあれば出版できた経験から、西島氏は原稿に愛着を持ちつつもその金銭的価値には懐疑的だった。「単行本という複製形態のものをつくるための材料にしかすぎない原稿はアート作品ではない」(西島氏)。そのため原稿は床に広げて、あたかも価値がないもののように展示。その原稿より空間的には上部にある単行本やパネル作品に価値があるということをギャラリー全体を使って示したのだ。

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だが彼も原画の価値を完全に否定しているわけではない。「あらゆる価値観を認めたうえで、他のマンガ家の展示を否定したくない」という西島氏。今回の展示会でも来場者にはサイン入りの「一点もの」の単行本がもらえた。「単行本の販売数が増えることで出版社にもメリットがある」(西島氏)。

西島氏はこれまでもマンガ家としてだけではなく、アートディレクターや、「DJまほうつかい」としても活躍している。(DJまほうつかいとして楽曲も発表)。「マンガ家として9年間仕事をしてきましたが、今回、一点物の作品を作ることで、今回少しアートの分野に踏み出しました」(西島氏)。今後はアート分野でもファン層を広げていきそうだ。

過去に別の出版社の展覧会を訪れたとき、マンガ家によって「原画・生原稿」に迫力の違いがあることを実感した。手描きの原稿を見て、印刷物の単行本では伝わりにくい迫力を感じさせるマンガ家がいる一方、制作過程をすべてデジタル化しているため、「原画」が平板な印刷物になってしまっている作品もある。今回の展示会は「トータルの考え方を展示する場こそ展覧会である」という西島氏だからこそ実現したものだ。マンガをアートの流れの中に位置づける動きが増えてきているいま、「何ができるのか」を考える大きなヒントとなるだろう(bookish)。

業界マンガ、次の一手

編集者や営業など出版関係者や書店員の間で話題となっている『重版出来!』(じゅうはんしゅったい)(「月刊!スピリッツ」連載中)。
3月29日に発売された単行本第1集は、発売からわずか5日で重版が決定。
さまざまなニュースサイトで取り上げられるなどメディアからもプッシュされている、今注目の作品だ。

そして、出版社や書店の動きが細かに描かれているが、“読者の動き”をどう描くか、それが現実に対してどう響くかが、非常に楽しみな作品でもあるのだ。

いまこの作品から目が離せない理由が2つある。1つめは、『働きマン』や『編集王』にはなかった、ネットなどソーシャルメディアを使った”拡散者の拡大”を実現したこと、2つめは、今後これから読者をどのように物語に取り込んでいくかである。

『重版出来!』は同業者なら、全く同じ体験をしていなくても共感できる「あるあるネタ」がいくつも仕込まれている。
営業と編集の部数の駆け引き、不規則な生活による親からの小言など、「あるある」を細やかにストーリーに取り込み、編集、営業、書店員どの位置に立っていても楽しめる内容だ。

このマンガを描くにあたって入念に取材をしているのが作品からよくわかる。だからこそ、同業者ならどの立ち位置であっても思わず肩入れしたくなるのだ。

ひと昔なら、同業を取り込んだところで、口コミで「いい」と広がるしかなかったが、現代ならばソーシャルメディアを使って大勢に拡散することができる。
拡散された情報を見た人が、さらなる拡散者に変化し、波状の輪のように広がっていく。
特に書店員を取り入れたことで、書店の棚でのプッシュ度合いも上がり、売上げに対する効果は大きかったはずだ。

マンガ/ソーシャルメディア/書店員の盛り上がり方はとても興味深い。
発売後は書店員たちが、店での売上げがどのような状態か、店舗にある残りの冊数はどれほどか……これをリアルタイムにTwitterで発信してくれたおかげで、このマンガの勢いをありありと知ることができた。

出版といえば「小説家(先生)」がいて、「編集者」という秘書のような存在が寄り添う、といったイメージが一般にはあったように思えるが、今はそれも昔のこと。
『重版出来!』によってマンガの中でもリアルでも、営業、流通、書店員、デザイナーといったさまざまな存在が改めて浮き彫りになった。

出版業界で働く者を題材にしたマンガはいくつかあるが、最も知られているのは先述の通り『働きマン』と『編集王』だろう。
週刊誌の女性記者をテーマとした『働きマン』では、事件を追う一人のジャーナリストとしての自分/女としての自分の間で揺れ動く姿を描いたりと、単純に記者ではない部分を描き出し、働く女性からの共感を集めた。『編集王』は漫画の世界どのような葛藤や人間関係があるか……という、業界の裏側と一人の働く男としての姿、夢破れた男の再生を熱量をもって描き出したことで、同業者だけでなく一般読者(主にサラリーマン)にも響いた。

この、「同業者だけでなく一般読者にも響く」を、『重版出来!』は今後いかに実現させるのだろうか。

現在発売されている1巻までを読めば、編集者/営業/書店員/作家/アシスタントなど「作り手側」の視点は多角的に出てくる。これを読んだ読者は普段知り得ない業界の裏側を読む楽しさは味わえるが、ソーシャルメディアで出版関係者が盛り上がっているほどの共感はもてていないのではないだろうか。

何をもってして、現在盛り上がっている層と同じところに読者を引っ張ってくるか……これは今後、非常に期待すべきポイントだろう。

もしも、巧みに読者を取り込み、出版関係者と読者が同じテンションをもってこの作品について盛り上がりをみせることができれば、今後の職業マンガや出版業界を描いたマンガに影響を与える、歴史にみる発明品のような、珠玉の一作になるのではと思う。

参考サイト
スピネット/SPINET

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文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

「ドラゴンボール」、時代を越えるその絵の力

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1980~90年代、全国の少年少女を魅了したマンガ「ドラゴンボール」がいままた日本で人気を集めている。きっかけは原作者の鳥山明氏が原作・ストーリー・キャラクターデザインで参加した17年ぶりの新作映画「ドラゴンボールZ神と神」の上映。主人公の声優をつとめる野沢雅子氏が「キャラクターもストーリーも往年のファンを裏切らない」というように、20年以上前の作品がいまでも通用するのはなぜか。展覧会の原画や作品を見ていると、洗練された絵柄、時代や国境を超える世界設計が大きいのではないかと思う。そしてこのエッセンスは確実に、「NARUTO」など現代の少年バトルマンガにも継承されているのだ。

ドラゴンボールは鳥山明氏が1984年、週刊少年ジャンプで連載を始め、1995年に最終回を迎えた。ジャンプが600万部を超える販売部数を誇った時代を支えた作品のひとつだ。どんな望みもかなう伝説の宝物「ドラゴンボール」を探す冒険物語であり、主人公の孫悟空の成長譚でもある。連載開始当初はギャグテイストが強かったが、徐々に強い敵が増え、「少年バトルマンガ」となった。

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[左]1985年発行の第1巻(旧表紙カバー)[右]1995年発行の最終巻(旧表紙カバー)

新作映画の公開を記念した展覧会「鳥山明The World of DRAGON BALL」では、懐かしいコミック原画200点が用意され、東京会場には多くのファンが訪れた。(4月までに東京・大阪で開催されたほか、7月には名古屋でも開催予定)孫悟空の登場シーン、フリーザとの戦いのシーンなどどれも原画を見ているだけで物語を思い起こさせ、わくわくしてくる。

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2013年3月27日(水)~4月15日(月)に、日本橋髙島屋8階ホールで開催された

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会場内には入場者が「かめはめ波」を撮影できるブースを設置

東京の会場で改めて原画や翻訳版をみると、鳥山氏の描いたドラゴンボールが世界中で受け入れられた理由が見えてくる。1つは国境を越える世界設定だ。ドラゴンボールは中国の小説「西遊記」に近い中華的な世界観をベースにしながらも、海の近く、砂漠、街中へと広がり、地球上のどこの国と特定させない描き方がされている。特に連載が始まった初期のころはその傾向が強い。孫悟空が住んでいるのは中華風の家。でも海の近くに行くと、木造の洋風の家に。広大な大地、個性的な造形のメカニックのあふれた都市。様々なカルチャーがミックスされた様子が背景画を見ているだけで実感できたのだ。だからこそ、世界中の読者が「違う国の話」ではなく「近くにあるかもしれない国の物語」として、入り込むことができたのではないだろうか。

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[左]コミック3巻、[右]第12巻(いずれも新表紙カバー)同じような南国の風景だが、一方アジア、もう一方は西洋世界を想像させる。

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2003年発行「ドラゴンボールランドマーク」、2004年発行「ドラゴンボールフォーエバー」。この他、設定を掘り下げるガイドブックが各種発行されている

もちろんキャラクターの魅力も大きい。登場人物の顔は基本的に、1本のシンプルな線で輪郭が描かれている。1本の線にいろいろな意味を込めて描くのは、複数の線を使うよりも難しく集中力がいることなのだそうだ。この線で鳥山氏がキャラクターを描いた結果、それまでのマンガ作品にはない垢抜けた造形を持つキャラクターが生まれた。「実録少年マガジン編集奮闘記」では「鳥山明らジャンプの新人たちがかくマンガは週刊少年マガジンが築き上げてきたものとまったくちがうとおもった」とかかれている。それは物語の作り方はもちろん絵柄の違いも大きかったのだろう。これは鳥山氏のデザイナーとしての能力も影響しているだろう。あるデザイナーの友人は、「構造からとらえて人物を描いている」と指摘する。鳥山氏は元グラフィックデザイナーであるため、キャラクターの感情や音を表現する擬音についてもグラフィック的な仕上がりを意識しているようにみえるそうだ。鳥山氏自身も「マンガ脳の鍛えかた」(集英社)内のインタビューで、「デッサンをたくさん描いたりした」と答えている。それまでのマンガ家はマンガや絵画を見ながら絵を描く力を鍛えていた。それに対し鳥山氏がグラフィックデザインの素養を持ってマンガの絵を描こうとしたことで、全く違う系統の「マンガ絵」が生まれたのだ。

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[左]コミック41巻(新表紙カバー)[右]コミック10巻 表紙デザインにおいても、グラフィカルなデザインパターンを取り入れているのが分かる

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2010年発行「マンガ脳の鍛え方(集英社)」

その絵の力は読みやすさにもつながっている。鳥山氏は「神は細部に宿る」を実践し、自動車のタイヤの溝の一本一本や、神龍のうろこの一枚一枚、洋服のしわまでまで書き込んでいた。洋服や自動車や飛行機などの機械類などどれをとっても「実際にありそう」と思わせるほどディテールが細かいものだった。天下一武道会のシーンでは、きちんと観客まで描かれ、いかに試合が盛り上がっているかが表現されていた。だがそれでいて、コマの中の情報は多すぎない。ある種、あまり絵を描くことにこだわらず、過不足ない量で抑えていたからこそ、テンポよく読める作品として世界で受け入れられたのだろう。

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2002年~2004年にかけて発行された「完全版」。最終巻は初期版に加筆されている

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[左]コミック28巻(新表紙カバー)[右]1990年発行「鳥山明the world」 ディティールまでこだわったバイクや自動車といった機械や、皮膚の質感まで再現する恐竜などの絵は鳥山氏の特徴のひとつ

このコマの配置も、テンポよく読める要素の一つだ。「マンガ脳の鍛え方」のインタビューでは「コマの構成を斜めにしたり大小、変化をつけたりします」と答えている。1ページのコマの数は4~5コマ、1話の終わりは次につながる印象的なコマを置いて終わる――少女マンガなどの一コマが「静」ならば、鳥山氏の一コマは「動」。全体的にコマの中もコマとコマの間もアップテンポな時間が流れているように感じられる。
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2013年発行「鳥山明The World of DRAGON BALL」カタログ

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1993年発行AKIRA TORIYAMA EXHIBITION「鳥山明の世界」展図録

マンガ評論家の南信長氏は「現代マンガの冒険者たち」の中で「ビジュアルの変革者」という系譜で、鳥山明を取り上げている。「手塚治虫のマンガ的表現にアメコミを加えたスタイリッシュな絵柄」とのこと。「冒険ファンタジー系の作品をかいている作家はすべて影響を受けている」としている。その証拠に、鳥山氏のキャラクターは登場から20年以上たった今、最新のマンガのキャラクターと並んでも遜色ない。映画の公開を記念して、同じ週刊少年ジャンプで連載中の「トリコ」や「ONEPIECE」のキャラクターと一緒に登場するアニメが放送されたが、はまったく違和感がなかった。「宇宙戦艦ヤマト」など過去の作品をリメイクするさい、キャラクターをデザインし直すのとは対称的だ。
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震災支援企画で描かれたイラスト。そのキャラクターはいつの時代も子供たちを元気づける

垢ぬけたキャラクター造形、無垢で純粋な主人公、ペット的な脇役の配置、ギャグとシリアスなシーンのバランス。さらには鮮やかな色使い――ドラゴンボールを構成する要素を考えると、マンガ「ONEPIECE」や「NARUTO」がドラゴンボールの確立したフォーマットを継承していることがわかる。それほど鳥山氏の残したモノは大きかったのだ。

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[左]ドラゴンボール完全版29巻、[中央]ONE PIECE 1巻、[右]NARUTO 1巻

今年3月末に公開された「DRAGON BALL Z神と神」は公開から23日間で動員数200万人を突破。興行収入は後悔から15日間で20億円を超えるなど、4月時点で、2013年公開の映画としては最速だ。映画館には、原作を連載で楽しんでいた世代だけでなく、子供の姿も少なくなく、「♪CHAーLA HEAD-CHA-LA~」とテーマソングを歌っていた。昔の子どもをわくわくさせたドラゴンボールは、そのままの姿で今の子どももわくわくさせ続けている。dragonball12

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

3.11で思う、風景と私たちの生活との一体性

東日本を襲った大震災から2年。マスコミなどを通じて被災地の風景に触れるとその回復には時間がかかることを実感せざるをえない。
震災が一変させた風景はそれが自然だけではなく私たち、そして私たちの祖先の暮らしによってつくられてきたことを物語っている。
沈下や隆起により地形が変化し失われた風景の大半は、私たちの生活の堆積だったのだ。
風景と人の生活はつながっている——このシンプルだが誰もが忘れがちなことを震災が起こるより前に訴えようとしていた作品が、芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』(講談社)だ。

『ヨコハマ買い出し紀行』は人口減少、地球温暖化、文明の後退が進む近未来の関東周辺が舞台。
主人公であるロボット、アルファと周囲の人々の交流を独特のテンポで描く。
この作品はロボットなど多くの人工物が登場しつつも景観というよりは圧倒的に風景的な雰囲気が強い。
それは背景と登場人物の境界が曖昧で、切り離して取り出すことが出来ないものとしているからだ。

登場人物の一人が言う。「私たち音やにおいでできてるんですよ…たとえばなしとかじゃなくて…」。
主人公アルファはウトウトしながらさらりとそれに応える。「知ってるよー」。

自然と身体の境界は曖昧である——『ヨコハマ買い出し紀行』の主人公たちは、これを当然のこととして受け入れることで、豊穣な意味の中を漂うことが出来るのだ。

作中で主人公たちはそれぞれの今を生きている。がそれは同時に世界に生かされているということのようにも感じられる。
世界は自分に大きな影響を与えるかもしれないが、自分も(微力ながら)世界に影響を与えている。
時間の長短、規模の大小こそあれども、それはどちらも受け継がれる風景の一部なのだ。

地理学者オギュスタン・ベルクは東日本大震災を「風土のスケールに近い出来事であった」と述べている。
日本で古くから「景観10年、風景100年、風土1000年」と言い伝えられていることを踏まえての発言だ。
震災のもたらした影響はおそらく『ヨコハマ買い出し紀行』で主人公らが経験した文明の後退より大きなスケールなのだろう。
だが現実の私たちは、「震災前は良かった」という感傷から脱却し、早急に景観をそして風景をつくりあげていかなければいけない。

例えば建築家の伊東豊雄。彼はただ闇雲に震災前の建物や港を再度造るのではなく、風景や風土の視線を取り込んだ「みんなの家」プロジェクトを乾久美子、平田晃久らとともに岩手県陸前高田市で実現させた。
「みんなの家」は、昨年のベネチアビエンナーレ建築展日本館で展示され、多くの来場者の共感を得た。風景を取り戻すという動きがけして小さなものではないことの証左だろう。

日常生活を送る中で、私たちが意識的に風景について考えることはほぼ無い。
震災で意識させられた、風景と私たちの生活との一体性も、忘れられてしまうかもしれない。
だが『ヨコハマ買い出し紀行』に触れることで、読者は自分も世界に組み込まれており、風景の一部であると再認識できるのだ。

『ヨコハマ買い出し紀行』は直接震災を扱った作品ではないが、震災後の行先を考えるうえで重要な要素が埋め込まれられていた。
良くも悪くも時代を先読みする——空想から生み出されるマンガにはときにそんなことがありうるのだ。

関連書籍
『風景という知』(オギュスタン・ベルク)世界思想社
『ここに、建築は、可能か』(伊東豊雄)TOTO出版

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。

帰属意識は“路線”に宿る

この3月に東急東横線渋谷駅が移転した。

地上から地下5階へ。この歴史的移転をひと目見ようと、地上での営業最終日は東横線渋谷駅が人でごった返し、駅長による挨拶に涙した人も多かった。普段何の気なしに駅を利用していても、この変化に寂しさを覚えた人が大勢いたのだ。

渋谷駅移転について、一連の人々の反応やニュースを見ていると、東京に住んでいる人は無意識に電車や駅、それらを包括する路線に帰属意識を抱き、帰属している路線を愛しているように思う。東京そのものに帰属意識を持っているわけではなく、「地域」よりもさらに細分化された「路線」が対象だ。

たとえば、初めて会う人と「どこに住んでいるか」という会話で盛り上がるのは、地方では間違いなく「市」区切りである。同じ市であれば親近感がわき、そこから出身中学や高校の話題にうつるのに対し、東京で盛り上がるのは「どの路線に住んでいるか」である。居住地区が近くても異なる路線沿いに住んでいるより、地図上では離れていたとしても同じ路線の方が、話が盛り上がる場合が多いのだ。

この帰属意識を人物の心の揺れ動きや成長へと結びつけ、物語へ発展させたマンガがある。『鉄道少女漫画』(中村明日美子/白泉社)は、鉄道ファンに向けた純粋な“鉄道マニアマンガ”ではなく、「鉄道を舞台とした登場人物の日常」に目を向けた鉄道漫画だ。

鉄道が好きな主人公を描いた『名物!たびてつ友の会』(山口よしのぶ/白泉社)『鉄子の旅』(菊池直恵/小学館)など、従来からある「鉄道」そのものへの愛を強調したものとは、毛色がまるで異なる。また、鉄道漫画は、鉄道好きな男性が多い男性誌で出されるのがセオリーだが、少女漫画誌で掲載されているのも特徴といえる。

話を戻して、東京に住む人々の帰属意識について考えたい。なぜ東京に住む人々は、地域ではなく路線に帰属意識をもつのだろうか。

多くの人が移動に電車を利用するため、地域や道路よりも電車の方が生活になじんでいるという点はもちろん、それ以外にも理由は二つある。

一つは電車の特徴である「共有する空間」にある。車で移動する場合、同乗者がいなければ一人の空間で目的地へたどり着くため、だれかと空間を共有することがない。一方、電車は出発地から目的地まで誰かと共有しながら進んでいく。そのため、地方では誰かと共有する空間=「地域(市や町など)」となるのに対し、東京は路線に集約されるのだ。

次に、東京では地域単位ではなく、路線ごとに個性があるからだ。東京にはさまざまな路線があり、蜘蛛の巣状にレールが敷かれ、あらゆる方向へと電車が走っている。停車駅も乗客の“色”もバラバラであり、たとえ同じ駅を停車駅にもつ路線だとしても一方は高級住宅街を走り、一方は郊外に抜ける路線であったりと非常に多種多様のため、一つひとつの路線に個性が生まれている。帰属意識が地域に生まれるのではなく、路線に生まれるのはこのためだ。

東急東横線渋谷駅の件だけでなく、小田急線東北沢駅〜世田谷代田駅が同じく3月に地上から地下3階へ移転する際も、駅舎の最終営業日に人々がつめかけ、ニュースで大きく取り上げられた。気づかれることのなかった帰属意識が、駅舎移転というイベントよってあらわになったといえる。この一連の出来事によって、読者の心をつかむ「鉄道漫画」の存在はより色濃くなっていくのではないだろうか。

『鉄道少女漫画』は都心の新宿から観光地として名高い箱根湯本、またデートスポットとして知られる片瀬江ノ島まで通っている「小田急線」を舞台にした短編集の漫画である。

物語は実在する小田急線の駅を舞台に進行していく。地下/地上なのか、急行は停車するのか… こうしたリアルのエッセンスがマンガの中にちりばめられている。髪の毛一本一本まで美しい繊細な描写と、その細やかさの中に描かれる軽やかな空気感は、小田急線沿いに住み日々を送る登場人物たちに、そこに住んでいなくともノスタルジックな感慨と、そして同族意識に似た愛おしさすら喚起させる。これこそが『鉄道少女漫画』が他の鉄道漫画と一線を画す部分だ。

東急東横線渋谷駅は、駅舎移転によって東京メトロ副都心線と接続し秩父や川越まで1本で行けるようになった。ここでどんな帰属意識の変化が起きるのだろうか。それはこれから楽しみな部分であり、これを題材にした鉄道漫画もいつか出てくるのでは、という期待に胸がふくらむ。

東京の路線は少しずつ変化していく。そのたびに私たちの帰属意識のありかも変化していく。今日、自分と同じ電車を利用している同乗者の日常ドラマに、思いをはせてみるのもいいかもしれない。

(kukurer)

関連書籍
新刊『君曜日—鉄道少女漫画2—』(白泉社/1月発刊)
『鉄道少女漫画』に収録されている「木曜日のサバラン」のスピンアウト作品。

脱構築されたバンド・デシネが生んだ新しい表現世界

2012年から相次ぎ欧州やアメリカのマンガが日本に紹介されている。

これまで数多くの日本のマンガ家に影響を与えてきた海外のマンガ作品だが、最近はマンガ以外のエンターテインメントにも影響を広げている。新しい文化の流入で日本のマンガにも進化が期待できそうだ。

その端緒がフランス語圏のマンガ「バンド・デシネ(BD)」にインスピレーションを受けたゲームソフト『GRAVITY DAZE 重力的眩暈:上層への帰還において、彼女の内宇宙に生じた摂動』だ。

『GRAVITY DAZE』は2012年9月に発売したソニー・コンピュータエンターテインメントのプレイステーションVita用ソフト。架空の都市を舞台に、主人公のキトゥンが重力を操り、嵐に奪われる街を取り戻そうとするアクションゲームだ。Vitaのジャイロセンサー機能を使い、重力を操作しているかのようにキャラクターを動かすことができるのが特徴で、2013年メディア芸術祭のエンターテインメント部門で優秀賞を受賞した。メディア芸術祭のホームページでは受賞理由を「重力を操るという新しい快楽のあり方を発明した」としている。

一見普通のグラフィックが美しいアクションゲームに見えるが、開発者の外山圭一郎はメディア芸術祭内で開催された講演会で、その開発のきっかけになったのはフランスのバンド・デシネ作家、メビウスの作品を見たことだと説明。「メビウス氏の鮮やかな空間にインスパイアされた」といい、欧州的な風景の中にキャラクターが浮いている絵を思いついたという。

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さらにアクションシーン以外のストーリー展開はバンド・デシネのようなコマ割りで進む。しかもゲーム本体を傾けると2次元だったコマが2.5次元になるという工夫までされているのだ。

バンド・デシネはフランス語圏で出版されるマンガの総称だ。子ども向け冒険物語からSFまで幅広いテーマを扱っている。日本のマンガに比べて絵の表現に重きを置いた作品が多い。週刊誌や月刊誌に掲載された連載作品がコミックスになる日本に対し、最初から単行本の形で発売されるものがほとんどだ。

バンド・デシネはこれまで何度か日本に紹介されており、『AKIRA』作者、大友克洋らの表現にも影響を与えたことで知られている。大友は「ユリイカ」3月臨時増刊号「世界マンガ体系」のなかのインタビューで「バンド・デシネの作家の描くSFの世界にあこがれた」と話している。このフレンチコミックが、日本のマンガだけでなく、家庭用ゲームの表現にまで影響を与えていたのは驚きだ。

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これまでマンガとゲームが必ずしも断絶していたわけではない。むしろ愛好家の層が一部重なり合うなど関係は深い。だがその関係は、「ゲームをマンガ化する」「マンガのキャラクターをゲームに使う」「ゲームを楽しむ人をマンガにする」など。あくまでゲームとマンガというそれぞれの分野を、相手の分野で拡張するだけにすぎなかった。

もちろん拡張により登場したすばらしい作品も多い。ゲームのマンガ化では『ポケットモンスター』があげられる。元は任天堂が発売した『ポケットモンスター』というゲームだったが、子供向け幼年誌でマンガになり、アニメ化されることで世界的なキャラクターに成長した。ゲームを楽しむ人を題材にした作品では、すがやみつるの『ゲームセンターあらし』(小学館)や押切連介『ハイスコアガール』などだ。後者は1990年代のゲームセンターや家庭用ゲームのヒット作を紹介しつつ、ゲームを楽しむ男の子の青春と恋愛をうまく描いている。

これらと『GRAVITY DAZE』が違うのは、一見してこれがバンド・デシネというフレンチコミックの影響をうけたものだとはわからないことだ。開発者らの話を聞けば、その根底にバンド・デシネの表現方法やアニメーション作成の手法が活用されたことがわかる。だがそれらの世界観や手法が開発者らのなかでいったん咀嚼されたうえでオリジナル作品としてユーザーには提示されているのだ。外山は「バンド・デシネのままでは難解すぎた」といい、日本のキャラクター文化を組み合わせた。


「4Gamer .net」より

この過程は、これまでの日本マンガの進化と重なる。これまで日本マンガは古今東西の小説や映画、舞台芸術から様々な物語や表現方法を取り込み進化させてきた。手塚治虫氏の初期の作品では、当時の洋画に影響を受けたものが多い。週刊少年ジャンプで連載中の『ONE PIECE』の作者、尾田栄一郎も映画監督の黒澤明の作品の世界観に影響を受けているといわれている。もちろん、古今東西の作品を深く咀嚼し、自分のものとして新たな表現としている。

そのようにして歴史を積み上げてきたマンガが、逆に他のエンターテイメントである家庭用ゲームに同様の影響を与えることになったのは、マンガという文化が世界中で深化した証左といえるのではないだろうか。

日本のゲームに影響を与えたのが日本産のマンガでなかったことは悔しいが、マンガという表現方法がゲームに対してまだ貢献の方法があるということなのだろう。今後もそうあってほしいし、マンガという表現方法や業界も、海外進出を視野に入れた開発を進めるゲーム業界から多くのことを吸収できるのではないだろうか。

関連サイト
『GRAVITY DAZE 重力的眩暈:上層への帰還において、彼女の内宇宙に生じた摂動』(ソニー・コンピュータエンタテインメント/プラットフォーム)

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。