リアルとマンガが逆転する時

マンガの中と現実世界、フィクションとノンフィクションがわけがわからなくなる。マンガの中で展開されている物語の方が、より現実味を帯びているからだ。
架空と現実の境界線を曖昧にしていく最上のテーマは、「インターネット」といえるだろう。

筒井哲也の『予告犯』では、インターネットを使った劇場型犯罪が描かれている。

新聞で作った覆面をかぶり「明日の予告を教えてやる」と画面の向こうの無数のユーザーに犯行予告をする「シンブンシ」。
その予告の内容は、明らかな法律違反ではないもののモラルに反することをしていた者に対する「制裁」予告。予告通りの事件が起きると、シンブンシは社会悪をこらしめる覆面のダークヒーローとして、全国の注目をさらうようになる。

それに対し警視庁のサイバー対策課・吉野絵里香は、明晰な頭脳と分析力、隙をゆるさない冷徹さで犯人たちを少しずつ暴いていく、というのがこの作品の物語。
犯人たちの過去、犯行の手口や動機、追いつめる警察側の推理などが細かく描かれ、読者は犯人・警察どちらの角度からも読み進めることができる。

今度は、現実世界でのネット犯罪をみてみよう。
最近起こったネット犯罪は「遠隔操作ウイルス事件」。これも犯人からのメールが大きく取り上げられた劇場型犯罪だったが、その動機は未だに不明瞭で、かつ警察が誤認逮捕する事案が起きるなど、さっぱり解決とは言い難い。

大きなニュースにはなっていなかったが、3月に欧州ではネット崩壊の危機といわれるほどのサイバー攻撃が発生していた。史上最大規模のDDoS攻撃は、ネットの根幹を揺るがすものとして衝撃を与えた。

また、2010年以降のネット犯罪は人間の感情を組み込んだものに変化を遂げた。

昔ながらのネットの脅威といえば、パソコン内のデータを破壊したり、書き換えてしまうものなど、愉快犯的なものが多かった。
現在では、明確に金銭の詐取を狙ったものが多く、手口も巧妙化している。

さらに、SNSの台頭によって知人・友人関係の「信頼」を利用した脅威が顕著だ。
Facebookでは友達の書き込みだと思ってクリックした途端、勝手に自分のウォールにも書き込みが行われ、意図せずウイルスを拡散する加害者となってしまう事例も発生している。

しかし、これほど高度化したにも関わらず、見たり聞いたり触ったりできるものではないのもあり、それが脅威であるという実感を得にくい。
生々しい自動車事故の現場なら、万が一自分の身に起こったら…と想像を掻立てるものがあるが、ネット犯罪はニュースで騒がれていても、自分の身にふりかかった時のことは想像しにくい。
欧州で発生した“ネット崩壊の危機”も、本来ならより衝撃的な出来事だったはずだ。

興味深いことに、日本のセキュリティソフト導入率は世界トップクラスで低い。これは自分が被害に遭った時の姿が想像しにくいからではないだろうか。
そして、ネットで起きていることはやはり「フィクションっぽい」のではないだろうか。

話を『予告犯』に戻すと、登場人物の過去や説得力のある犯行動機、手口などを細かく描くことが可能なのはマンガであり、架空だからこそ、である。

だが、現実のネットでおきる犯罪のほうが、明らかにならないまま忘れられたり、被害に遭っていることすら実感できなかったりと、遠い世界のものになってしまっている。

現代ならではの、現実とマンガの逆転現象が起きているのだ。

関連サイト
「ジャンプ改web」

kawamata
文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

「ミラクルジャンプ」にまた、期待の新人

『このマンガがすごい!2013』(宝島社)オトコ編第1位の『テラフォーマーズ』や発売後即品切れ・重版となった『君は淫らな僕の女王』など、ヒット作を量産している「ミラクルジャンプ」(集英社)に期待の新人が登場した。『レイチェル・ダイアル』の皿池篤志である。

舞台は人間に代わって機械たちが殺し合った「代理戦争」終結後の空想近未来。かつて世界有数の工業都市であったチェスターバレーでは、代理戦争時の負の遺産である自律思考型戦争兵器”ギガンテス”がいまだ稼働し続け、人の侵入を拒み続けている。しかし人間はそこに残る大量の金属資源を捨て置くことができず、極地使用型工業アンドロイドを作り回収にあたらせていた。

財閥の令嬢レイチェルは、幼いながら金属を回収し終えると溶鉱炉で回収した金属とともに還元されてしまう工業アンドロイドを不憫に思い、これらを助けようと試みる。彼女が単身チェスターバレーに飛行機で立ち入るところから物語は始まる。主人公レイチェルの行動力は幼い頃から抜群。周囲を巻き込みひっかき回すが、周囲の心配などどこ吹く風。父親は娘が屋敷からいなくなるたび何度も肝を冷やしている。

世界設定もユニークだ。ロボットを作る技術力を持ちながら、プラスチックのような合成樹脂は発明されていない。木や石やガラス、金属など年月を経ても汚くならない素材で構成される世界。産業革命時代のような雰囲気で、近未来にもかかわらずどこか懐かしさすら感じさせる。「レトロフューチャーSF」との謳い文句も納得だ。

レイチェルのチェスターバレーでの冒険に付き合わされるのは、アンドロイドのコンビ、マックスとアレックスだ。「あぶない刑事」のタカとユウジコンビのような不良アンドロイドコンビ。レイチェルとの掛け合いは、兄2人妹1人の兄妹のようでもあるが、たまに主人と従者の関係が混じる。また、お嬢様の行動というものは“風の谷のナウシカ嬢”よろしく、強い魅力を持ち得る。

マックスとアレックスはチェスターバレーで、もともともプログラミングにしたがって金属回収(口から食べて体内に貯蔵する)をしていたが、レイチェルによってその行動を禁止されてしまう。しかし、この不良アンドロイドコンビはレイチェルの命令に逆らい、隙あらば金属を回収し(食べ)ようとする。ロボットは人間の命令に逆らえないので2人のAI(人工知能)は混乱してしまうのだが、この葛藤の機微が上手く描かれている。ロボット系のSF作品は、人間やロボットの本質やその差異としての「魂」や「ココロ」をあぶり出すものなのだ。

ところで、ロボット工学三原則をご存知だろうか? ロボット工学三原則とは、アイザック・アシモフのSF小説において、ロボットが従うべきとして示された原則で、人間への安全性・命令への服従・自己防衛を目的とする3つの原則から成る。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

高度に設計・製造されたロボットは人間以上に人間らしい容姿で、人間らしい行動をとる。感情やココロの模倣もまた然り。言い換えるなら「ロボット工学三原則」と矛盾する場面に遭遇することがあるのだ。第1話では、アンドロイドは「人間を犠牲にするか、アンドロイド自身を犠牲にするか」という問題に突き当たることになる。アンドロイドのAIは原則に従い後者を選択するが、幼いレイチェルは納得できずその選択を却下する。それでも、アンドロイドは自らの意思で自分たちを犠牲にするほうを選択する。だが、もしレイチェルが命の危険に晒され、犯人を殺さなければ助けられない状況に陥ったとき、この心優しきアンドロイドたちはどのような行動をとるのだろうか?

そのほかにも、ロボット工学三原則に反するロボット=ギガンテスは、一体誰が何のために作り出したのかなど、いくつかの謎や疑問がこれからの物語の展開を多層化していくうえでのキーとなるはずだ。さらには、ロボット「ココロ」の在り方をいかに描ききれるか、それがこの作品の評価を高めていくうえでの分水嶺となるだろう。

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文=凹田カズナリ
街の文化を支える書店チェーンで勤務。平和台→早稲田→五反田店でコミック担当を歴任。現場で仕入れた知識を広めるべくマンガナイトにも参画。2011年~「このマンガがすごい!」「このマンガを読め」にもアンケートを寄稿。日本橋ヨヲコ、鶴田謙二、長田悠幸、阿部共実、きくち正太、山田穣、谷川史子、堀井貴介、沙村広明、松本藍、篠房六郎(敬称略・順不同)を筆頭にオールジャンル好きな漫画多数。

新しい革袋には新しい酒を

793-pc-mainスマートフォンの普及、相次ぐタブレット(多機能携帯端末)の発売—マンガを楽しむ媒体も、主流の紙にデジタル機器が加わりつつある。デジタル機器で読めるマンガは今、紙のマンガの電子化が多いが、デジタル機器ならではの作品も登場しつつある。メディアにあわせて進化してきたマンガが、一段の成長をすると期待したい。

『西遊少女』(萱島雄太著)は2012年8月、ウェブ本棚サービス「ブクログ」が運営する個人出版サイト「バブー」で発表された。ベースは中国の大衆小説「西遊記」と見られ、「少女」の三蔵法師、悟空らが天竺を目指す珍道中を描いている。

私はこの作品を、東京・下北沢の書店「B&B」で開催されたトークショーで知った。トークショーの中では「寒色と暖色をきれいにくみあわせ、コマ割りが自然にわかる色使い」「スクロールすることで、悟空の武器の如意棒が伸びる様子がすごくよくわかる」と評価されていた。

実際登録して読んでみると、スクロールで画面が流れていく雰囲気が新鮮だ。キャラクター作り、話の展開という基本を抑えつつ、「スクロール」といういわば新しいページの動かし方に合わせて、絵柄を動かしている。例えば、空の高さ。大きさが限られる紙の雑誌では、どんなに高く突き抜けたようにかいても限界があるが、ウェブ上では、いくらでも縦にコマをのばすことができるため、空はどこまでも高くきれいに表現されている。また空の色も、白から水色へと微妙に変化させている。またオールカラーだが、前述のように、桃色や赤色など暖色系の絵柄の次は、茶色や青色など寒色系の絵柄のコマを持ってくるなど工夫している。どれも淡い色使いなので、画面がうるさくない。

実はスクロール形式で読むマンガには先行例がある。韓国のマンガ市場だ。インターネットが普及し、紙のマンガが減った韓国では、「ウェブトゥーン」というスクロールで読ませるウェブマンガ市場が広がった。新作マンガの発表がウェブマンガ中心になるなかで、よりネットで読みやすい形態が追求された結果ではないだろうか。

NHNJapan執行役員広告事業グループ長の田端信太郎氏はその著書『メディアメイカーズ』のなかで、「メディアが変われば、メディア上の流布するメッセージ内容やコンテンツも変わらざるを得ない」と指摘。その例として、音楽がレコードからCDへとメディアを変えたときのメロディの変化を説明している。

かつて、「iモード」など従来の携帯電話向けマンガ「ケータイコミック」が隆盛だったころには、携帯電話の画面にコマの大きさをあわせた『マスタード・チョコレート』などが読者の心をつかんだ。携帯電話のという小さな画面の制約のなかで、紙の雑誌の少女マンガなどのようにコマ割りで登場人物らの心情が表せない。だからこそ、登場人物らの顔はコマの多くの面積を占め、目や口の動きと言った細か動きで心のうちを表していたのだと思う。それを紙のコミックスにしたときも踏襲していた。コマを自由自在な大きさで描く紙の雑誌のマンガに比べるとシンプルなコマ割りにみえるが、コマ割りがシンプルで余計な動きがないからこそ、かえって登場人物らの細かい表情や動きが、セリフに集中でき、感情移入できるのだ。

思えば紙の体のなかでも新聞紙面上の1コママンガの時代から、新聞の4コママンガ、マンガ雑誌とメディアにあわせて細かくコンテンツを変えてきた。発行ペースや読まれる場面などに合わせて、それぞれの媒体の読み手がおもしろいと思う作品を作り出してきた。メディアのデジタル化が進む中、既存のマンガの電子化も魅力的だが、せっかくだから新しいメディアにあうコンテンツが生まれてきてほしいものだ。

関連サイト
『西遊少女』(萱島雄太/パブー)無料サンプル号
ウェブトゥーン(NAVERより)
『マスタード・チョコレート』(広報資料より)

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

「ブックガイド・ドラマ」は出版業界にとって朗報となるか?

『花もて語れ』『図書館の主』といった「ブックガイド・コミック」が増えている。
小説などの他の作品が物語に登場し、読み進めることで物語を楽しめるだけでなく、他の作品にも触れられるためブックガイドとしての役割も担っているもので、数々の人気作品を生み出している。
そして「ブックガイド・ノベル」としては、『ビブリア古書堂の事件手帖』は随一だ。

『ビブリア古書堂の事件手帖』は鎌倉にある古書店「ビブリア古書堂」を舞台に、女店主の篠川栞子と、本が読めない体質をもつ五浦大輔が、古書とそれに関わる人に起きる謎を解くヒューマンミステリ。江ノ電や美しい海を連想させる鎌倉という場所のチョイス、古書、そして美しい女店主という要素もまた物語を盛り上げてくれる。

同作品は1月からフジテレビ系の月9枠でドラマ化。ライトノベルはこれまでも映画化やドラマ化などの実写化はあったが、都会的・現代的・若者向けなこのトレンディドラマ枠の原作にラノベ文芸が選ばれたのは、ライトノベルの存在が作品数も売れ行きも大きな存在となっていることが伺えるだろう。

この『ビブリア古書堂の事件手帖』ドラマ化には、清楚・黒髪ロング・巨乳のヒロインの栞子とは真逆のイメージである剛力彩芽がキャスティングされたことでも、悪い意味で話題になった。原作が人気であっただけに、反発が大きかった。

このキャスティングは「テレビ業界側が売り出したい役者」であり、決して役柄に沿ったものではない。
原作のカバーに描かれている栞子は、決してこちらを向かない。深窓の令嬢を思わせる横顔と、溌剌としたイメージの剛力彩芽では役と本人の間にギャップが大きすぎたようだ。
実際にドラマ版はどうなのだろうか。初回視聴率は14.3%、7話までの視聴率は平均12.0%で、数字としては悪くない。

さらには、『それから』(夏目漱石)、『晩年』(太宰治)、『せどり男爵数奇譚』(梶山季之)といった、作中で登場した作品がドラマ放送後より売れたという事実がある。なかには、絶版作品の復刊が決まったものもある。
ドラマ視聴者が原作に着目したわけではなく、作中に登場した作品に注目が集まっているといえるだろう。

原作が好きな読者にとって、好きな作品が思わぬ改変や、イメージと異なる俳優によって広がるのは複雑なところと感じてしまいがちだ。
しかし、本の“新たな読者の獲得”をおおいに達成したことは「ブックガイド・ドラマ」として、出版業界にとって朗報には違いない。

文庫版だと作中に登場した本の売上げ増は、記憶の限り無かった。では、なぜドラマ版だと可能だったのだろうか?

それは映像で「本を見る」こと、これによる身体性だ。

文庫版の物語の中で、作品タイトルやあらすじを文字として追っていると、あくまで作中の文字列の一つとして認識される。

だが、映像として実際にモノとしての本が登場すれば、視聴者は「商品」として認識し、「あの商品が買いたい」と考えたのではないだろうか。
手にとって、ページを開いて…… つまり「実際に自分の手で触れ、読みたい」、そう思わせることができたのが映像の力だったということだ。

「ブックガイド・コミック」も、同じ仕掛けが可能なのかもしれない。

マンガは文字列だけでなく、ビジュアルで表現することができる。
あらすじや魅力を紹介する「ブックガイド・コミック」は多いが、それだけではない本を手にした時の質感、におい、ぱらりとページをめくる音、手にした時の重み——モノとしての魅力。

CMで美味しそうにチョコレートを食べている俳優を見て、とろけるような舌触りとしみ込むような甘さを連想するように、本を「味わいたい」という気持ちを喚起する。

電子コミックがより流通するようになれば、作中でモノとしての本をアピールすることで電子版も売れる、という現象も考えられる。

マンガもノベルもドラマも、ガイドするだけではなく「次の行動」に結びつけることで、作品としてまた別の意味がもてるようになるのだ。

関連サイト
『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズ
マニアックでも売れる! “ビブリア古書堂効果”がすごい!(ダ・ヴィンチ電子ナビ)

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文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

テレビドラマ「泣くな、はらちゃん」が 拡張するマンガの世界

驚いた。これはテレビドラマ作品だが、中心にはマンガがあってそこから物語が広がり、そしてテレビドラマを周知させるため、ウェブサイトではもちろんウェブマンガが読めるのだ。

告知用TwitterアカウントやFacebookページといったSNSでは、スタッフブログや制作の裏話なども楽しめる。

映像、マンガ、舞台、ウェブ、ウェブマンガ、ソーシャルメディア… ひとつのストーリーで一体どこまで拡張していくのだろうか。

これは2013年1月19日に日本テレビで放送がスタートしたテレビドラマ「泣くな、はらちゃん」のことだ。
ドラマの主人公は大人しい性格の越前さん(麻生久美子)。彼女は勤務先のかまぼこ工場での人間関係からストレスを抱えていたが、あまり口に出して主張するタイプではないのか、愚痴や主張をぐりぐりとマンガとして描くことで発散していた。

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「泣くな、はらちゃん」公式サイトより

そのマンガの主人公がはらちゃん(長瀬智也)だ。ひょんなことからはらちゃんはマンガの世界から現実世界へと飛び出し、越前さんの前に現れる。

描かれている舞台は居酒屋のコマのみなので、その居酒屋がはらちゃんと他の登場人物たちの世界の全てであり、世界を描く越前さんは神様としてドラマでは描かれている。

一つの物語であらゆるメディアを巻き込み、メディアミックスというよりはもはや“メディアのサラダボウル”状態な同作品。
マンガの世界から見たこちら側(現実世界)を描くことで、テレビの前にいる私たちをもその中に取り込もうとしている。
そして、それを描くにはマンガよりも映像のほうが適しているのかもしれない。

これまで、マンガを原作に映像化や舞台化することはあっても、ドラマの作中でマンガを題材として扱い、このような形で拡張させていく作品は無かったのではないだろうか。

さらに注目したいのが、作中のマンガ部分や全てのイラストを手がける漫画家・ビブオだ。

『ビビトトレーハ氏の招待』で「月刊IKKI」(小学館)の新人賞・第38回イキマンを受賞後、2010年に『シャンハイチャ—リー』を発表。ハイテンション兄弟ハートフルコメディと、愛くるしいキャラクターを描き漫画家としてデビューしたが、期待していた続編は刊行されずじまいだった。

物語で明かされていない部分も多く、続編が無いこと自体にも、新たなマンガが発表されないことにも、残念な気持ちで過ごすこと2年以上——しかしここで突如として返り咲き。

天晴な気持ちでもある。

ドラマ放送後はウェブ上で「絵を描いている人は誰?」「マンガの絵もいい」という評判も。ビブオのTwitterアカウントをみてみると、ドラマの初回放送後にフォロワー数が急上昇し、およそ400ほどだったフォロワー数は2000を超えた。
知名度も上がり、漫画家として新たな飛躍を期待せざるを得ない。

一体どういったいきさつで、ビブオがドラマのマンガ部分を手がけることになったかはわからないが、ふだんマンガを読まない層にもさらりと響く、親しみやすくキュートな絵柄が視聴者の心を掴んだのは間違いない。

ビブオが描いたマンガ部分は、「泣くな、はらちゃん」ウェブサイトに「越前さんの漫画ノート」として掲載されている。
放送終了後にドラマに登場したものがウェブ掲載され、視聴者はウェブとドラマを行き来するのだ。

「泣くな、はらちゃん」はコミックスが存在するわけではないが、マンガ部分が気になった人はビブオの名前を検索し、『シャンハイチャ—リー』に辿り着く。

さらに一歩進めば、「月刊IKKI」とは何ぞや、他の掲載作品は何なのか、ちょっと見てみようか… となる(ことに期待したい)。

この相互拡張性は今後の一つの指標となるかもしれない。

関連サイト
IKKI公式サイト[イキパラ]
「泣くな、はらちゃん」

kawamata
文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

娯楽と社会的メッセージと

暗殺教室

娯楽のひとつであるマンガ。ともすれば「おもしろい」だけで終わってしまいがちだが、現実社会へのメッセージを読み取ることのできる作品もある。そのひとつが『暗殺教室』だ。娯楽と社会性の両立は、作品の奥行きを深めている。

『暗殺教室』は2012年に週刊「少年ジャンプ」で連載が始まり、現在単行本2巻まで刊行されている。

舞台は現代の私立学校。成績などでクラスが分けられており、劣等感の強い「E組」に、世界を滅ぼす力を持ち、各国が狙う暗殺のターゲットが「先生」となる。第1話の冒頭で、クラスの全員が挨拶の合図と同時に銃を向ける表現が象徴するように、E組の生徒らは国の訓練を受けつつ暗殺をねらうことになる。

「世界の滅亡」「暗殺」「子供が世界の救世主」と、一見トンデモ世界の設定。暗殺のターゲットとなり、「殺せんせー」と名付けられた先生は、つるりとした丸い頭、8本の手足と、およそ人間離れした外見で、マンガを娯楽として楽しむ要素も高い。

だが、学校内に存在するヒエラルキー、いつ自分が最下層に転落するかもしれないおそれなど現実社会の厳しさを正面から描いているところが読者を物語の中に引きこむ。「教室内(スクール)カースト」(鈴木翔氏)が描くように学校内のヒエラルキーはすでに絵空事ではない。大人の社会も「格差社会」といわれ、リストラなどでいつ自分が最下層に転落するかわからない不安定さ。そのような境遇におかれた現代人に、この作品は身につまされるものとして訴えかけている。

組織の中に当然発生するヒエラルキーや格差を冷徹に描きつつ、けして後味が悪くないのは、その現実への解決策のひとつを提示しようとしているからだ。それが対立する「殺せんせー」によるE組生徒らの底上げだ。「暗殺」という課題を与えられた「E組」の生徒は、殺せんせーを暗殺対象として狙いつつ、その殺せんせーから一般教科を習うことで、暗殺技術という武器だけでなく、「第二の武器」=成績の上昇などを手にするのだ。もちろん、どんなに能力が高くてもひとりでつっぱしっては目標を達成できず、周囲の同じ目的を持つ仲間と連携することの重要さも描かれる。

生徒たちはけして超人的な能力を持たず、自然に殺せんせーとの勝負は頭脳勝負が中心になる。人気のある少年マンガ『ONEPIECE』や『HUNTER×HUNTER』ではバトルモノであるためどうしても最後は物理的な力と力のぶつかり合いになる。だが暗殺教室では、暗殺しやすい場所に殺せんせーを追い込むためのコース設計が修学旅行の課題になるなど、頭脳や知恵を使った戦いの面白さを描く。生徒たちは情報収集の必要性も自然と学び、男女の区別なく力を発揮できる。『ドラゴンボール』や『北斗の拳』などはいかに肉体的力を高めていくかが勝負の決め手になっていたが、『ジョジョの奇妙な冒険』以後、力技だけではない、頭脳勝負を主眼に置く作品も出てきており、ジャンプの伝統のひとつでもある。

けして超人ではない、自分と近い存在が周りと協力して一つの目標に向かっていく———小中学生の時にこれを呼んでいたらどのような感想を持つのだろうか。大人が共感できる作品だが、こどもに読ませたいと思える、直球の少年マンガという側面も強い。娯楽と社会性の両立こそ、もともと子ども向けメディアとして成長してきたマンガの真骨頂だろう。

情報誌「おとなファミ」に掲載された著者へのインタビューの中では、どのように終わらせるかのアイデアもあるそうだ。週刊少年ジャンプのセオリーである「友情・努力・勝利」のうち「勝利」はまだ出てきていない。殺せんせー、生徒、両方にとっての「勝利」をどう描くのか楽しみだ。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

再生できない面白さ 乞!リメイク&愛蔵版化

最もマンガ雑誌が売れていた1990年代半ば、少女マンガ雑誌「りぼん」(集英社)では池野恋『ときめきトゥナイト』、彩花みん『赤ずきんチャチャ』、水沢めぐみ『姫ちゃんのリボン』、小花美穂『こどものおもちゃ』など、マンガ雑誌最盛期を華々しく飾る名作揃いだった。

小・中学生だった当時の少女たちが、現在では20代・30代となりその声が改めて大きくなったのを受けてか、『ときめきトゥナイト』のリメイク作品『ときめきミッドナイト』が2002年から2009年まで刊行。
『姫ちゃんのリボン』を原作に、気鋭・込由野しほが「姫ちゃん」の世界を現代版に描いた『姫ちゃんのリボン カラフル』が生まれた。

また、小花美穂の『Honey Bitter』の特別番外編『Deep Clear』に『こどものおもちゃ』の主人公・倉田紗南がゲストキャラとして登場するなど、形はさまざまだが当時親しんだ少女マンガを再び楽しめる仕掛けが組み込まれている。

しかし、今でも熱烈なファンがいるにも関わらず、おそらくこうしたリメイクや愛蔵版の出版などにこぎつけられないであろう作品がある。

“少女マンガ界のドクダミの花”、岡田あーみんの作品だ。

岡田あーみんは1985年に1巻が発売された『お父さんは心配症』でその名を馳せたギャグ漫画家である。
1989年に第6巻で『お父さんは心配症』に幕を下ろした後は『こいつら100%伝説』で忍者ギャグを発表。

その後は同じくギャグを貫きながらも、頭身が低めのキャラから一変、王道少女マンガ風の絵柄に挑戦した『ルナティック雑技団』を1992年から1993年に連載した。

彼女の作風の中心は、偏執的・変態的な個性のキャラクター達が巻き起こす強烈なギャグ。

『お父さんは心配症』では、父子家庭の父・佐々木光太郎が思春期の娘・典子を心配するあまり超人的な身体能力で典子にまとわりつき、たとえ死んでも愛の力で蘇るなどもはや妖怪レベル。
当初は父と娘、その周囲の人物によるギャグが中心だったが、終盤になると社会問題をもギャグに取り込んでいる。
光太郎が道を歩いていると「鼻歌をうたっていた」という理由で通り魔に殺害されるシーンは、今思い返しても少女マンガ雑誌でよくも掲載OKが出たものだと思う。

『こいつら100%伝説』

『こいつら100%伝説』では、自殺志願者に対し主人公の1人である極丸(きわまる)による「おまえは死んだらええかもしれんけど残された人のこと考えたことあるか」「飛び降りたぐちゃぐちゃの死体片付けるのは残された人やねんぞ」もなかなかエッジのきいたセリフだ。

どの作品を見ても、キャラクターの暴走によって進むストーリーは面白可笑しくもあるのだが、どこか悲哀に満ちている。

その理由は、個性的なキャラクター達が織りなす暴走の数々は、「良かれと思って」「己の欲望のあるがままに」の2つの行動原理が働いているから。
人間のどうしようもない部分、その行き過ぎた行動を笑いへと消化させ描いているのが岡田あーみんだ。
子どもの頃は“笑い”でしか理解できなくても、大人になればこの“悲哀”がわかる。これこそ、根強いファン獲得の理由だろう。

『ルナティック雑技団』

先述の極丸のセリフも、子どもにとってはただのギャグだ。しかし大人ならもっと別の受取り方ができるはず。

いかんせん刺激の強いギャグでもあるため、時代が違う現在ではなかなか難しい作風なのかもしれない。
『姫ちゃんのリボン カラフル』や『ときめきミッドナイト』が現れた時に、「いつか岡田あーみんも……」という考えが頭をかすめたが、おそらく無理だろう。

『お父さんは心配症』はテレ朝でドラマ化されたこともあったが、変態的要素は取り除かれ父と娘のただのドタバタ日常ドラマになっていた。あーみんの持ち味が全て打ち消されていたあの時の落胆といったら。

当の岡田あーみんも、残念でならないが現在活動していない。

「りぼん」全盛期マンガ再生の影でひっそりと咲いた、少女マンガ界のドクダミの花。表現規制のゆるさが生んだ、二度と再生できない珠玉のギャグ。

このまま再び盛り上がりを見せることなく、過去として終わってしまうのはもったいない。

kawamata
文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

男性の欲望も受け身の時代?

「出版不況」といわれるなかでもなお圧倒的に多数の発行部数をほこる「週刊少年ジャンプ」。一時、部数獲得のため女性読者を増やそうとしたが、再び少年向けを強化しようとしている。そのなかでも目立つのが、恋愛マンガ『ニセコイ』の躍進だ。一見男性好みのハーレムタイプにみえるが、よく読むと登場人物の男女は決して恋愛のためのコミュニケーションには踏み出していない。「世は歌につれ、歌は世につれ」というつもりはないが、多くの読者をあつめるこの作品はいまの少年の恋愛観を反映しているのだろうか。

『ニセコイ』は2011年連載開始。現在単行本で4巻まで発売されている。11月上旬に1周年を迎えた号ではみごと表紙と巻頭カラーを飾り、現在1巻は6刷りと、人気が伸びていることを示している。

話の展開は、気弱な男の子を様々なタイプの女の子が取り巻くハーレムタイプのラブコメだ。主人公、一条楽は実家がヤクザであることをかくして学校生活をおくる、気弱な少年。(暴力団を排除する法律ができたあと、この家はどうやって収入を得ているか気になる)親の約束で突如婚約者を持つことになり、ほのかに好意をよせるクラスメートとの間で揺れ動くことになる。

これまで「ジャンプ」に、恋愛を重視するマンガがなかったわけではない。

「ジャンプ」ではこれまでもいくつかの恋愛を重視するマンガを連載していた。古くは『きまぐれオレンジ★ロード』(まつもと泉)、『電影少女ービデオガールー』(桂正和)、『D・N・A2〜どこかでなくしたあいつのアイツ』(桂正和)。最近では『To LOVEる』(矢吹健太朗(漫画)・長谷見沙貴(脚本))など。ただ一定程度の熱狂的なファンを獲得するものの、かならずしもその都度ランキング上位にくるわけではなかった。歴代の連載作品のうち100話をこえたものは限られている。また、まったく恋愛マンガを掲載していなかった時期というのも存在するようだ。

一方でいま、『ニセコイ』が「ジャンプ」内でも幅広い人気を獲得しているのはなぜだろうか。「友情・努力・勝利」を雑誌のコンセプトとするジャンプで、物語の主軸が「恋愛」(=男性にとっては女性を得ること)におかれた作品に人気が集まるということは、男性が重きを置くことが、「友達との絆で努力して得られる勝利」よりも「女性」に移ったということができる。評論家のササキバラ・ゴウは『<美少女>の現代史』(講談社)で、「マンガの主人公の男の子は徐々に女の子のために戦ったり何かを目指したりするようになった」と指摘しているが、『ニセコイ』はまさに女性を獲得することが目標というテーマを世界の救済や敵への勝利が目的だったジャンプでも表現し始めたといえる。

この作品が、男性の「多くの女性からちやほやされたい」「女性から好意を寄せられたい」という欲望をストレートに表現していることもみのがせない。進化心理学の研究では、男性はより多くの女性の恋愛し、子孫を残そうとするといわれている。だからこそ、1970年代、人気を集めた作品『うる星やつら』(高橋留美子)で、諸星あたるは積極的に多くの女性にアプローチしていた。男性にとって女性にアプローチをすることは、男性性の証明でもあるようだ。

ひるがえって『ニセコイ』では、女性側がアプローチする。気弱なクラスメートが教室に呼び出したり、普段はつれない子がお祭りにいきたそうなそぶりをみせたり。これが少年向けのジャンプというレーベルで人気を集めているということは、現実の恋愛でも、多くの女性にとりあいされたい、できれば女性側からアプローチされるのが理想だと考えているようにみえる。

だが作品をよく読むと、男性側も女性側もそれぞれのアプローチは必ずしも相手に届いていないのだ。主人公の楽がほのかな思いを寄せる気弱なクラスメートは、実は主人公のことが好きなのに、楽はまったく気がついていない。その後の登場する女の子からも「こいつ、悪くないな」と思われているのに、楽本人は、「嫌われているだろうな」と思いこんでいる。誰も思いを伝えないため、話の展開上も失恋はせず、ずっと心地よい関係を続けている。

評論家の中島梓は「コミュニケーション不全症候群」のなかで「少女も少年も誰にでも好かれなくてはいけない、好かれることが価値であり愛されない人間は存在する事が許されないと刷り込みをされる」と指摘。さらに「一方通行の典型的な関係性こそがコミュニケーション不全症候群の本質」で「かつては当たり前と考えられていたような相互的な人間関係を築くことができなくなってしまった」と分析している。まさにこの作品に登場するキャラクターのやりとりを言い当てているように思えるのだ。

表面的には取り囲まれる女性にちやほやされつつ、コミュニケーションはすれ違うことでけして傷つくことはない——男性にとって気持ちのいい世界かもしれないが、これをよんでもクリスマスまでに恋人はできないような気がするのは私だけだろうか。

参考
『コミュニケーション不全症候群』(中島梓)
『<美少女>の現代史』(ササキバラ・ゴウ)
ブログ「アスまんが」

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

アートとして、もしくは逆輸入としての受容のされかた

695-pc-main書店の文庫棚へ行くと、文庫の表紙に「マンガ絵」が多く使われるようになったと感じる。

2008年に集英社が『こころ』(夏目漱石)、『地獄変』(芥川龍之介)や、『堕落論』(坂口安吾)など名作文学の表紙に小畑健、久保帯人ら人気漫画家を起用したことは記憶に新しい。
それまでになかった読者層を獲得し、当時は大きな反響を呼んだマンガ絵の表紙だが、今はそう珍しいものでもなくなった。

 

695-nakamen1(左)『こころ』夏目漱石/装画:小畑健/集英社文庫
(右)『地獄変』芥川龍之介/装画:久保帯人/集英社文庫

マンガ絵を採用した表紙について少し遡ると、手塚治虫が表紙・挿絵を担当した『イリヤ・ムウロメツ』(筒井康隆/講談社)が1985年に発売されている。

さらなる原型をさぐってみるなら、1954年に創刊された少女マンガ雑誌『なかよし』がそれに当たるのではないだろうか。
当時の『なかよし』はマンガだけでなく、少女のための読み物ページも充実させていた。ここに力添えしていたのがイラストレーターだ。
だが、当時はイラストレーターと漫画家という明確な区分はここにはなく、「依頼があればどちらもやる」というスタンス。小説の表紙・挿絵を描いていた者が、傍らでマンガも描いていたのだ。
現代の「マンガ絵表紙」の原型をここに垣間みることができる。

また、マンガ絵の表紙が増えた背景には、海外からの高い評価の逆輸入の影響が考えられる。

そのさきがけは、荒木飛呂彦によるアメリカの生物科学誌『Cell』の表紙だ。

2007年9月に発売された『Cell』の表紙には、日本人科学者が発見した”殺し屋タンパク質”を擬人化したものが描かれている。
今まで日本のマンガ・アニメに興味が無かった層も、「この絵は一体誰が描いた!?」と考えたに違いない。

この出来事とは別に、日本でもマンガ絵表紙の変革ポイントになった作品はいくつかある。その1つが田中芳樹の『創竜伝』(講談社)だ。
マンガ家集団・CLAMPの絵を表紙に起用したことで、「CLAMPの絵が表紙だったから読んだ」という読者も多かったはず。

695-nakamen2

(左)『イリヤ・ムウロメツ』筒井康隆/装画:手塚治虫/講談社
(右)『創竜伝』田中芳樹/装画:CLAMP/講談社文庫

さらに、荒木飛呂彦が『Cell』の表紙を描くより少し前、2006年の『美術手帖 2月号』(美術出版社)では「マンガは芸術(アート)か?」という興味深い特集をしている。
楠見清の記事にある「とくにこの十年、海外でのマンガやアニメに対する関心や、それらを背景ともする奈良美智や村上隆に対する評価の高まりを受けて、日本国内でもその評価を逆輸入する機運が高まった」という一文に、マンガへの眼差しが再編された理由が凝縮されているではないだろうか。
(こうして見ると、荒木飛呂彦の絵は絶好のタイミングで海外の科学誌の表紙を飾っていたのかもしれない)

マンガ絵の表紙は昔から存在するものだったが、その受け入れられ方・評価のされ方が近年になって大きく変化したに過ぎない。
むしろ、こうしてマンガ絵の表紙が増えたことは回帰ともいえる。

1人のマンガ好きとしてはなんだか嬉しい一方で、「マンガ絵を出せば売れる」と考える風潮もまた、評価の変化によって生まれたように感じられるのだ。

(川俣綾加)

(トップ/アメリカの生物科学誌『Cell』/装画:荒木飛呂彦)

非主流がはなつヒット作 セオリーこだわらず

非主流派の出版社からのヒット作が相次いでいる。映画化された『テルマエ・ロマエ』などコンテンツのマルチ活用が後押ししている側面もあるが、長年マンガを出版してきた企業では日の目を見にくいだろう作品を、ネットなどを活用しながら展開している。歴史が浅いからこそ、従来のマンガのセオリーにこだわらない作品に挑戦できることも寄与しているのではないだろうか。

ひとつの例が、スクエア・エニックスのオンライン雑誌「ガンガンONLINE」で連載中の『月刊少女野崎くん』だ。4月に発売された第1巻はすでに累計10万部を発行したという。単行本の表紙は、少女マンガのヒーローになりそうなりりしい少年、「野崎梅太郎」がマンガ用をペンをもっているもの。「野崎くん」は武骨な男子高校生でありながら、人気少女マンガ家という顔を持つという設定で、少女マンガのヒロインになりそうな女子高生「佐倉千代」らを中心に、ユニークなキャラクターらの日常を描き、話は展開する。

この作品を読んで、なぜ思わず笑ってしまうのだろうか。
私は、主に少女マンガが連綿とつみあげてきたセオリーを予想外の展開で裏切っているところにこの作品の面白さがあると考えている。
たとえば、「放課後、気になる相手との自転車の2人乗り」。少女マンガの愛読者なら、これがあこがれのシチュエーションで、2人の間がぐっと近づくエピソードになると知っている。だが「月刊少女野崎くん」のなかでは、「2人乗りは法律違反」と切って捨て、いかに合法的に「自転車2人乗り」を実現させるかの試行錯誤が続く。そもそも野崎くんと佐倉さんの出会いも、佐倉さんが野崎くんに「ファンでした」と告げるところから始まる。一般的な少女マンガセオリーでは、そのまま告白→お付き合い、となるはずだが、この作品では野崎くんが佐倉さんの告白を、「マンガ家のファンです」だと誤解し、アシスタントに起用するのだ。かわいい少女マンガの主人公は、同級生のかわいい子なんだろうな」と思えば、実はモデルが男子高校生だったり、そもそも初恋もまだな野崎くんが少女マンガ家であるということが、「少女マンガは読者の繊細な心理を理解できる女性が描いている」——こんな思い込みを見事に覆している。
(しかし歴史を振り返れば、手塚治虫氏の『リボンの騎士』など初期の少女マンガは男性マンガ家によって描かれていた。とすると、男子高校生が少女マンガを描く姿は、少女マンガの元の姿を垣間見せるものでもあるといえる)。

マンガ評論家の石子順造氏は『コミック論 石子順造著作第三巻』で、梅原猛氏の笑いに関する論を引きつつ、「笑うということは2つの対象のコントラストによって引き起こさせる価値の低下をひとつの開放感として享受するもの」としている。『月刊少女野崎くん』においては、本来ならば少女マンガのセオリー通りに進むはずの物語が、読者の予測をいい意味で裏切る斜め上の結論をだしてきている。その結論が「現実ならそうだよね」と思わず読者が同意してしまうほど、セオリー通りの少女マンガが提供していた「夢」の部分を暴露してしまっているのである。
逆にこの作品が広く受け入れられているということは、多くの人が少女マンガのセオリーを身につけた、つまりかつて少女のためだけだった少女マンガが、男女問わない読者を獲得した証拠でもあるといえるのではないだろうか。

実は作者の椿いづみ氏は、白泉社の雑誌「花とゆめ」で『俺様ティーチャー』という作品を連載している。こちらも随所で少女マンガのセオリー通りの展開を予測させつつ、実は少年マンガで一般的な学園バトルに展開するというかたすかしをくらうおもしろさを味わえる。(男女が出会うのに恋愛に至らないところは、白泉社の伝統路線ともいえるが)
それでも少女マンガのセオリーをすべて暴露して、現実との矛盾を笑いに変える『月刊少女野崎くん』の連載は難しかったのではないか——同じ作者の作品の出版社が分かれることになった背景も想像してしまうのだ。

関連サイト
ガンガンONLINE

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

少年と沖縄・離島文化との遭遇

ゲーム業界を舞台にした『大東京トイボックス』(幻冬舎)で「まんが大賞2012」の第2位を獲得したマンガ家、「うめ」。小沢高広(原作担当)と妹尾朝子(作画担当)の男女ユニットである。彼らの新作『南国トムソーヤ』(「月刊コミック@バンチ」で連載中)は、都会育ちの子どもの離島での成長譚を中心にしつつ、インターネット検索では得られない知識の意味を教えてくれる、深みのある作品だ。

主人公の狩野千晴(チハル、小学5年生)は母の残した「誰よりも遠くへ」という言葉をたよりに都会から沖縄本島より南西約500㎞の羽照那島へやってくる。いきなり遭遇するマンタライド(巨大マンタに乗って海を泳ぐ!)、島時間、ヤギの屠殺など、カルチャーギャップに驚かされてばかりだが、子どもらしい柔軟性で徐々に島に馴染んでいく。とっつきにくいが、素直な性格の同級生である島人、我那覇竜胆を偶然助けたことで、チハルは彼に気に入られ、以後行動を共にするようになる。

羽照那島は沖縄本島とは異なる独立した文化をもっており、伝説、神話、禁忌などが多く現存する場所だが、チハルはそういった未知との遭遇に対する時、都会の少年よろしくスマートフォンを使いインターネット検索をするのだった。

しかし、島の伝説の「翼竜の化石」を探そうとする時に、チハルは自分のやり方の間違いに気づかされる。珊瑚礁が隆起してできた島なのだから、化石は存在しないという結論を出したチハルに、担任教諭は独自の研究成果によって隆起珊瑚礁の下に(化石が存在しうる)堆積岩の地層があることを教える。インターネットに仮託した知識を覆され、チハルは自らの「好奇心の壁」を意識するようになる。

さらにチハルが島の伝統的祭祀や同世代の巫女に触れることで、ニライカナイ究明へと物語の深度が増していく。
ニライカナイとは沖縄、奄美群島各地に伝わる他界概念で、「遥か海の東の彼方」「海の底」という理想郷や死後の世界を指す。「浦島太郎が助けた亀に乗って竜宮城を訪れる」という有名な昔話もニライカナイの概念に近似している。

本作は“青春離島暮らし”といういかにもマンガらしいパッケージングだが、民俗学やSFをちりばめ、深く読み込ませる要素をいくつも交錯させている。9月時点ではまだ1巻が出たばかりだが、今後の物語の展開は大いに期待できる。ニライカナイや離島の古代信仰などを調べて作品に臨めば、何度でも読み返すことになることは間違いない。

ohta
文=凹田カズナリ
街の文化を支える書店チェーンで勤務。平和台→早稲田→五反田店でコミック担当を歴任。現場で仕入れた知識を広めるべくマンガナイトにも参画。2011年~「このマンガがすごい!」「このマンガを読め」にもアンケートを寄稿。日本橋ヨヲコ、鶴田謙二、長田悠幸、阿部共実、きくち正太、山田穣、谷川史子、堀井貴介、沙村広明、松本藍、篠房六郎(敬称略・順不同)を筆頭にオールジャンル好きな漫画多数。

大正マンガ

日本の“憧れ軸”は過去へと回帰している。
というのは、映画や単発テレビドラマ、マンガも大正・昭和を舞台にした作品が多く、現代人のハートを掴むのは未知なる近未来への想像ではなく、経験したことの無い過去への郷愁のように思えるのだ。

マンガ作品においてもそれは顕著だ。大正を舞台に女学生によるドタバタギャグを描く『大正ガールズエクスプレス』(日下直子/講談社)、男子学生で結成された「文學倶楽部」に男装してまで仲間入りし、文学の道を突き進む少女を描く『ましまろ文學ガール』(天乃タカ/エンターブレイン)。
そして、他人の夢の中に現れ不思議な“予言”をする少年とウェイトレスによる昭和モダンファンタジー『十十虫(てんとうむし)は夢を見る』。

多くの作品が、現代の多くの読者が知らない“過去”を舞台にしている。

特に、大正〜昭和初期の作品には“つくりこみ易さ”もあるのか、時代設定の舞台になることが多い。
この時代は日本の近代化において大きな変革の時代だった。

江戸時代を脱した日本は、明治時代に文明開化で近代化の道を進む。
そして大正文化となると、日本独特の文化に西洋文化を大きく取り入れ、自由と発展を謳歌する時代に入る。
宝塚歌劇団の誕生、ラジオ放送の開始、洋食文化の発展、そして芥川龍之介といった数多くの文豪を生んだのもこの時代だ。

現代の日本人に近い生活スタイルや文化が、この時代に生まれたのだ。

もう一つ特徴的なのは、大正〜昭和初期、1930年代の「昭和モダン」に突入するまでの、「大正浪漫」という言葉。

2011年の講談社「Kiss」編集部による日下直子へのインタビューで、彼女は「乙女チックな和の世界=大正」だと思った、とこたえている。
ファッション、建築、食にいたるまで、その独特のデザイン性はひと目みるだけで「大正浪漫」を想起させ、ある種の記号として確立している。女子学生の袴姿を描くこともできれば、女性のモダン・ガール姿まで描くことも可能なこの時代。
漫画家にとっても一層の描く楽しさがあるのかもしれない。

こうした時代背景をうまく利用し、史実を織り交ぜつつストーリー展開へ運んでいるのが『十十虫は夢を見る』だ。まだ大正時代の面影が残る昭和初頭が舞台のこの作品には、無声映画からトーキー映画への変容期をテーマにした事件、関東大震災で妹を失った兄による“予言解き”などが、ミステリ&ファンタジー風に描かれている。
先述の「乙女チックな和の世界」が好きな読者ならば、必ず魅力を感じられるような作品だ。

独自の時代背景を生かしたストーリー展開は、絵もストーリーも輝かせる。
この時代設定と現代日本人の“憧れ”と相乗した結果が、大正・昭和作品の多さなのだろう。

では、たとえば50年、100年後の未来。
この“憧れ”はどの時代に向かっていくのか。そう考えるのも、また楽しい。

kawamata
文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

真実を隠そうとする妨害に、元レーサーの技術で立ち向かう

20世紀が生んだ最大の移動手段、自動車。しかしその歴史は自動車事故の増加とも背中合わせだ。責任や保険金でもめることが多い事故の現場で、わずかな物証を見つけ出し、推理を元に事故の真の原因を突き止めていく――それが主人公、環倫一郎の仕事「交通事故鑑定人」だ。真実を隠そうと環を妨害する事故の当事者に対しては、元レーサーの技術で立ち向かう。レーサー時代の事故のおかげで、運転技術に自信を失っていたが、ファンのおかげで徐々に自信を取り戻し、ル・マンの24時間耐久レースに挑戦する。環は交通事故鑑定人とレーサー、どちらの未来を選ぶのか―――登場人物らが乗り回す「フェラーリ360」など名車にも注目したいところだ。1996年~2003年に「スーパージャンプ」(集英社)で連載。現在はJコミでも読める。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

連載マンガの起死回生力

クレムリン

もう何度も使い古されている言葉だが、依然として出版業界を取り巻く状況は厳しい。
出版市場がピークだった1995年のあと、マンガ雑誌・単行本の売上げも減少の一途をたどっている。雑誌の休刊・廃刊も数知れず。

こうした事態を免れるためマンガ雑誌の編集側も新人漫画家を積極的に起用し、新たな人気漫画家の創出に躍起だ。新人漫画家にとっては作品発表のチャンスかもしれないが、ようやくデビューできても一発屋、もしかしたら一発屋ですらなかったという状況もきっと存在しているだろう。

昨今のそんな中、新人による連載マンガでとりわけ強い生命力を見せたマンガがある。
「週刊モーニング」(講談社)に連載中の『クレムリン』だ。

『クレムリン』は3匹のロシアンブルーの猫「関羽」(3匹とも名前は同じ)と、関羽を拾い一緒に暮らすことになった青年・却津山 春雄(きゃっつやま はるお)による不条理ギャグマンガだ。
その生命力の強さは2009年、「モーニング」主催で開催された新人賞「第26回 MANGA OPEN」にさかのぼる。
一度落選したにも関わらず編集長の目に止まり、「モーニング・ツー」での連載が決定したのだ。
ここで「みごと商業誌デビュー!」といいたいところだが、その後の経緯は少し複雑だ。

まず、2010年に「モーニング」でも連載がスタートするが、翌年には「モーニング」での連載は終了する。
作者ブログ「猫痙攣」によると、アンケートも単行本の売れ行きも「可もなく不可もなく」といった塩梅だったらしい。「モーニング・ツー」での連載は続行するが、区切りという意味で終了に至ったようだ。
しかしその後、すぐに「モーニング」で連載が再開している。
これはアンケートの結果が、編集部によって設定されたボーダーラインを達成できたことによるものだという。
連載中に打ち切りは決定していたが、担当編集の尽力で復活のチャンスを取り付けることができ、かつ読者アンケートの結果で見事目標をクリアしたことによって、ふたたび誌面に蘇ったのだ。

こうして、ギリギリのところで1度目の起死回生となった。

一方で「モーニング・ツー」での連載は2012年の43号で終了だ。
悲報にも聞こえるが、作者によるエッセイ「負ける技術」の連載は「モーニング・ツー」で続いていることに加え、YouTubeでフラッシュアニメが公開されるなど躍進中だ。
さらに、『モーニング・ツー』での新連載が決定(どのような内容になるかは、この原稿を書いている時点では不明)。2度目の起死回生となっている。

一時は連載終了まで追い込まれたわけだが、実はとんでもなく不死鳥作品なのではないだろうか。
この背景に考えられるのは、編集部側のドラマ演出と、作者のキャラクター性・エッセイというマンガ以外の面白さがある。
まず「連載が終了するかもしれない」事態を編集部側がオモテに出した。当然連載の動向に注目が集まるわけだが、そこに作者がTwitterで自虐的心情をつぶやくことで、「打ち切りかもしれない」というマイナスの状況を一笑に付すことができた。

結果として連載は再開したが、もし終了していても「負ける技術」の格好の題材となっていたのではないか。

たとえ打ち切りの憂き目にあっても、起死回生を狙うことは可能だったのだ。
(ちなみにこの「負ける技術」、かなり“読ませる”ものだ。)

キャラクター性のあるマンガ家は強い。

ソーシャルメディアで作家自身の露出が可能になった現代では、特にそうだ。マンガ作品の魅力そのものはもちろんだが、マンガ家のキャラクターというマンガ以外の新しい要素も、作品を支える時代なのだ。

関連サイト
時を翔ける天使 カレー沢薫の負ける技術 〜世界最弱から世界最高へ〜

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文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

深夜タクシー運転手と乗客をめぐる、巨匠の晩年作

元暴走族、今は無免許の深夜タクシー運転手をしている青年ミッドナイト(本名・三戸真也)が、乗客を中心とした人間ドラマに絡んでいく一話完結形式の短編連作。物語が進む中で触れられていく真也自身の生い立ちや、暴走族をやめるきっかけとなった少女マリのエピソード、ゲスト出演にとどまらない活躍を見せるブラック・ジャックの存在などが、ともすると地味になりそうな作品世界に彩りを添える。愛車(もちろん営業車を兼ねている)・エリカに搭載されたトンデモなギミックや、後半明らかになる真也の特殊能力など、ありがちな人情劇とは一線を画したユニークな設定も満載で、少年マンガらしい荒唐無稽さが楽しい。
巨匠の最晩年の作品であり、最後の週刊少年誌連載となった。衝撃的すぎるという理由で連載当時コミックス収録が見送られた最終回は、現在は文庫版で読むことができる。

文=鈴木史恵
1986年2月生まれ、千葉県出身。おもちゃメーカー勤務を経て編集・執筆業へ。マンガ好きとしての原点は物心つく以前から触れてきた手塚治虫と藤子・F・不二雄。24年組、80年代ニューウェーブ、ガロ系、それらの系譜にある青年マンガを中心に、面白そうなものは何でも読みます。マンガ以外の趣味は好きなバンドのライブや映画鑑賞など。

マンガ原作の映画、 成功の鍵は「データベース消費」の応用にあり

るろうに剣心特筆版

マンガ『ろろうに剣心』を元にした実写映画が順調に興行収入を伸ばしている。

配役やアクションの魅力はもちろん、原作のもつイメージを壊さなかったことで、原作ファンからの反発が少なかったためだとみられる。
原作から抽出したキャラクターの特徴を生かしながらも、物語の展開を現代の観客にあうように組み替えたことが寄与したようだ。

8月末に公開した映画『るろうに剣心』の興行収入は9月20日時点で25億円(先行上映を含む)を超えた。
興行通信社によると8月最終週の興行収入で邦画部門の1位になったという。
原作の世界観を壊されることがこわくて、マンガ原作の実写映画になかなか足を運ばなかった筆者も知人に誘われて見に行ったが、記憶の中にあるマンガ『るろうに剣心』のイメージをこわされず、アクションシーンや音楽など映画ならではの演出を満喫できた。

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映画『るろうに剣心』公式サイトより

『るろうに剣心』は1994年から1999年まで「週刊少年ジャンプ」で連載された作品だ。
幕末に暗殺者として活躍した「人斬り抜刀斎」—緋村剣心が主人公。
明治という新時代で生き方を模索する人々を描き、『DRAGON BALL』『SLUM DUNK』の連載が終わった後の「週刊少年ジャンプ」の販売を支えた。

マンガを原作にした映画が興行収入で成功を収めるには、新規ファンの開拓はもちろんのこと、原作ファンの多くも観客として引き付けなければならない。
だがこれまで制作されたマンガ作品をもとにした実写映画のなかには、マンガのファンから敬遠されたものも少なくない。
マンガ『DRAGON BALL』がハリウッドの映画会社によって実写化された際は、キャラクターの設定で原作との差が大きく、主に日本の原作のファンからは批判の声があがった。

それに対して『るろうに剣心』が原作ファンの反発を最小限に抑えられた理由は何か。
私は、批評家の東浩紀氏の提唱する「データベース消費」の仕組みを無意識に応用したためではないかと考えている。

「データベース消費」は東浩紀氏は2001年に出版した『動物化するポストモダン』(講談社)のなかで、1990年代のオタク文化に特徴的な消費行動として提唱した。
「データベース消費」とは、ある文化圏の消費者が、マンガやアニメなどの世界を楽しむ際、そのマンガやアニメ全体の物語や世界観ではなく、その文化圏で共通する要素を情報として蓄積したデータベースを構築し、それを自由に組み合わせて楽しむことだという。

映画『るろうに剣心』はこのデータベース消費の仕組みをうまく応用したのではないだろうか。
主人公の頬の刀傷、逆刃刀、旧幕府側の新政府への恨み、過去におったトラウマ、——それぞれのキャラクターが持つ身体的特徴や性格はそのまま維持し、すでにキャラクターの特徴を自らのデータベースに入れた原作ファンにとってはズレがないようにしつつも、演出や物語の展開はマンガの表現にとらわれず、「アクション時代劇」として楽しめるようにしている。

たとえば、主人公の剣心や斎藤一が原作中で技を披露するとき、多くの場合はコマの中に技の名前が明記され、あたかもキャラクターらが技の名前を叫んでいるようにもみえる。だが映画では、剣心や斎藤一はほとんど技の名前を自ら披露することはない。
そのため、剣での戦いにリアリティが生まれており、アクション豊富な時代劇として見応えがあるのだ。
物語も原作の二つのエピソードを無理なく組み合わせ、主人公の過去と、新時代との衝突をうまく描いた。
むしろ新時代を望んだ主人公が、その新時代になじめない葛藤、正義のために人を殺せるかというテーマなどはマンガよりもより強く表現されていたように思う。

パンフレットのインタビューによると、原作にはない登場人物のセリフもあったようだが、原作の設定を維持したキャラクターや世界観にあっており、違和感はまったく感じなかった。
2次元のマンガと3次元の映画では、読者や観客の受け止め方が違う。
単に忠実に再現するのではなく、それぞれのメディアのよさをいかした「再現」が成功したのだろう。

では原作者の和月伸宏氏はこの動きをどうとらえているのか。
9月に発売された『るろうに剣心 特筆版』(集英社)の後書きを拝読すると、「キャラクターが変わらず魅力的であればパロディーはOK」と述べている。
実際、特筆版に収録されている「キネマ版」は映画版のシナリオを考える際に出てきたアイデアで採用されなかったものをまとめたという。

90年代に連載された作品を知っている筆者からは、やや驚きの物語の展開もあったが、もし初めて読んでいたら、魅力的なキャラクターが明治という混沌とした時代を駆け抜ける物語に没頭しただろう。
『宇宙兄弟』『テルマエ・ロマエ』『僕等がいた』『ホタルノヒカリ』… 今年に入っても数多くマンガが実写化されているが、『るろうに剣心』の映画化と再連載は、旧作マンガの新たな活用方法のひとつとなるのではないだろうか。

関連書籍
『動物化するポストモダン』(東浩紀)講談社
『ゲーム的リアリズムの誕生』(東浩紀)講談社

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

ポルシェに流れるヨーロッパ車の芸術性、趣味性

実用性や利便性の追求。プロダクトにとってそれは間違いなく重要なファクターではある。が、しかし。こと、ライフスタイルと密接につながっている「クルマ」において、私たちを惹きつけるのは必ずしもそこに還元できるものばかりではない。趣味・関心、重きを置くモノ・コトが様々であるように、「クルマ」の魅力もまた多種多彩であり、麻宮騎亜『彼女のカレラ』は、比肩ないほどに高い“趣味性”を有する「ポルシェ」という存在を介して、そんなことを改めて気づかせてくれる作品だ。

父の形見として「ポルシェ911(964型)カレラRS」を譲り受け、ポルシェ・オーナーとなった主人公の轟麗菜(とどろき れいな)。だがその車体は彼女にとって熾烈なものだった。リアシート、エアコン、オーディオが外され、軽量化されたレーシングバージョン。マイナートラブルが頻繁に起きる上、街中での操作性は想像を絶するほどの悪さ。マニュアル車を運転することすらなかった彼女にとって、その価値を理解できるわけはなかった。だが、ポルシェのオーナーズクラブの仲間たちに支えられツーリングやサーキットに参加するうち、高い趣味性をもつポルシェの魅力に惹かれていくのだった。

ある種の「合理性」の埒外にあるともいえる、ポルシェに流れるヨーロッパ車の芸術性や趣味性。それをいつくしみたのしむ「クルマファン」に許された贅沢を、この作品を通して堪能できることは間違いない。

ohta
文=凹田カズナリ
街の文化を支える書店チェーンで勤務。平和台→早稲田→五反田店でコミック担当を歴任。現場で仕入れた知識を広めるべくマンガナイトにも参画。2011年~「このマンガがすごい!」「このマンガを読め」にもアンケートを寄稿。日本橋ヨヲコ、鶴田謙二、長田悠幸、阿部共実、きくち正太、山田穣、谷川史子、堀井貴介、沙村広明、松本藍、篠房六郎(敬称略・順不同)を筆頭にオールジャンル好きな漫画多数。

『サーキットの狼』から40年、スーパーカーの轟音ふたたび。

カウンタック

1970年代、池沢さとしの『サーキットの狼』などの影響を受けてわき起こったスーパーカーブーム。それは爆発的といってもよく、子供だけでなく大人も巻き込んでの社会現象と化した。しかし、高度経済成長の終焉は、豪奢さや過度の性能重視とともにあったスーパーカーへの関心を薄くさせ、その失速はまさにエンジンの火を落とすかのごとくであった。
やがて21世紀にかわり、環境に気配りした、静かに走るハイブリットカーが注目を集める時代意識のなか、突如エンジンの轟音を鳴り響かせるマンガが現れた――梅澤春人『カウンタック』である。
主人公はサラリーマンの空山舜。金もなく、彼女もなく、酒をあおって腐っていくばかりの生活を送る34歳が、ひょんなことから子供の頃憧れていたランボルギーニの「カウンタックLP400」を破格で譲り受けることに。スーパーカーに見合う男になるため、新しい日々がはじまる。
『サーキットの狼』から40年、クルマに込められたロマンは、ひとびとの心から決して失われていなかったのである。

ohta
文=凹田カズナリ
街の文化を支える書店チェーンで勤務。平和台→早稲田→五反田店でコミック担当を歴任。現場で仕入れた知識を広めるべくマンガナイトにも参画。2011年~「このマンガがすごい!」「このマンガを読め」にもアンケートを寄稿。日本橋ヨヲコ、鶴田謙二、長田悠幸、阿部共実、きくち正太、山田穣、谷川史子、堀井貴介、沙村広明、松本藍、篠房六郎(敬称略・順不同)を筆頭にオールジャンル好きな漫画多数。

世界に1台の「夢のクルマ」を作り上げる物語

fullspec

世界に1台だけの自分たちだけの「夢のクルマ」を持ちたいと思い描いたことはないだろうか? この作品は3人の幼馴染みが小学生から10年かけて、夢のクルマ「ブルース・リー号」を完成させる、まさにドリーム・ストーリーだ。設計、メカニック、ドライバーの役割を分担して、資金の少ないなか、技術書を徹底的に調べたり、スクラップ場からジャンクパーツを集めたりと、知恵を絞り出しながら、想い描いた到達点へと向かう。完成した夢のクルマは、「マツダユーノス・ロードスター」に軽量高出力の究極のエンジン「ロータリーエンジン」を搭載。高校生で無免許だが、「夢のクルマ」が完成した暁にはイメージ通りに操作できるように、レーシングゲームで日夜、トレーニングも行う徹底ぶり。クルマを一から設計して組み立てていく描写には、男子なら心をくすぐられること間違いなし。

ohta
文=凹田カズナリ
街の文化を支える書店チェーンで勤務。平和台→早稲田→五反田店でコミック担当を歴任。現場で仕入れた知識を広めるべくマンガナイトにも参画。2011年~「このマンガがすごい!」「このマンガを読め」にもアンケートを寄稿。日本橋ヨヲコ、鶴田謙二、長田悠幸、阿部共実、きくち正太、山田穣、谷川史子、堀井貴介、沙村広明、松本藍、篠房六郎(敬称略・順不同)を筆頭にオールジャンル好きな漫画多数。

昭和の“アダムとイヴ”の物語

千年万年りんごの子

白い雪・赤いりんごといえば、魔女の毒りんごで眠りにつき王子様のキスで目覚めるグリムのあの童話。
さらに、真っ赤なりんごはそれを食べて禁忌を破り、楽園を追放されるアダムとイヴの話も想起させる。
このようにりんごは、童話や神話においてなかなかキャッチーな存在だ。
そして真っ赤なりんごが重要な役割を果たする『千年万年りんごの子』は、現代の新進漫画家が描く、昭和を舞台にした漫画である。

時は昭和23年、大寒波の年。
雪の日に寺に捨てられていたという雪之丞(ゆきのじょう)は養父母によって愛情をもって育てられたが、孤独感から早く家を出て独り立ちしたいと思っていた。
一方リンゴ農家の娘・朝日は「自分が農家を継ぎたい」と、入り婿を求めていた。

こんな”条件の合致”から2人は結婚し、夫婦に。
激動の昭和、雪がしんしんと積もる土地で生活を送っていたある日、雪之丞があるりんごを朝日に食べさせてしまったことで、村の禁忌を犯してしまう。
朝日は土地の神様から祝福を受ける代わりに——というのがこの話。

白雪姫やアダムとイヴの話は、時に少しずつその物語の形を変えながらも脈々と現代に至るまで受け継がれてきた。

この漫画もまた、伝統的な神話や物語の原型を現代のお伽話へ昇華させたものだ。
日本の土地信仰や禁忌といった民俗学的側面を織り交ぜながら、天真爛漫さ・健気さ・母性をもつ朝日というヒロインを登場させることで童話性を打ち出している。
朝日の場合はりんごを口にしたことで追放されるのではなく「神の嫁(巫女)」になってしまうが、神の意思に触れる、という部分ではアダムとイヴの話が頭をかすめる。

雪之丞は「養父母が実の親のことを何か知っているのではないか」と思いつつ、事実を知ることを恐れ、何も深追いすることなく、いつも何かを諦めて生きてきた。

だが、「今回ばかりは諦められるか」と彼は心を決める。

果たして、雪之丞は神を相手に朝日を守り抜くことができるのか。村の禁忌の謎を解き明かすことができるのか。

まだお互いを深く知らずとも、条件の合致で結婚を決めてしまうお見合い(しかもそれでうまくいっている)、大家族での賑やかな生活、田舎の近隣事情など、経験したことがなくともどこか懐かしさを感じさせる。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」ほど露骨な郷愁ではなく、作者の画力によって情景豊かに淡々と描かれる点が、映像を越えて妙にリアルだ。

この『千年万年りんごの子』というマンガは、古今東西の神話や童話を原型に、昭和という時代を着せることで古き良き日本の郷愁を感じさせる。
田舎の雪国・狭い村を舞台に、もう体験することのできない憧れを過去に描くお伽話のようだ。

しんしんと積もる白い雪と真っ赤なりんごのコントラストは、鮮やかな反面どこか禍々しくも見える。

関連サイト
想像系新雑誌「ITAN

kawamata
文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

電子書籍を媒介に描かれる「SF=society fiction」

アマゾンの「Kindle」の浸透、楽天の「Kobo Touch」の発売、講談社の電子書籍強化——2011年から12年にかけて、現実社会で相次ぎ電子書籍の端末やコンテンツが発売されている。電車の中では文庫本や雑誌、新聞を読む人より、スマートフォンなど携帯端末を見る人のほうが多い。紙と電子端末という2種類のメディア形態が混在する出版文化や読書体験は今後どうなっていくのか。実はその未来を想像する一助はすでにマンガの中に登場している。

そのひとつが現在「月刊IKKI」(小学館)で連載中の『BABEL』だ。

舞台は2050年の世界。あらゆる書籍が電子化され「ビブリオテック」という電子書籍のネットワークシステム、仮想都市に統合されている。世界中のコンテンツがひとつになることで、浮かび上がるデジタルならではの「不具合」。主人公の父親らは、それを隠された大いなる謎だと考え、読み解こうとする。成長した主人公も、志を継ぎ、「隠された意図」を解明しようとするが——。書物に隠された意図を読み解くという点では、イエス・キリストらの謎に迫る「死海文書の謎を解く」(講談社)や超古代文明についてノンフィクション『神々の指紋』(小学館)、絵画に隠されたダ・ヴィンチのメッセージを読み解く『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)などミステリー作品を彷彿とさせる。

同時に興味深いのは、紙の本や電子書籍の描かれ方だ。学校では一人ずつ電子ペーパーを持ち、「読書」や勉強はすべてこれで行う。紙の本は「ペーパーバック」と呼ばれ、非常に高価でレトロなものとして描かれている。この点は、川原泉のSF作品『ブレーメンⅡ』(白泉社)と共通するところだ。電子書籍の普及開始を2000年代のはじめに設定するなど、現実の流れの少し先を「SF=”society” fiction」として、「こうなるのでは」という予測も含めて描いているように思える。

かつて子どもたちの夢を描いた『ドラえもん』や『ひみつのアッコちゃん』の秘密道具は、日本科学未来館で開催されている企画展「科学で体験するマンガ展」で最新の科学技術を使って表現された。「ビブリオテック」のようなネットワークシステムも、いつの日か現実になるかもしれない。その日のために、「このようになったら自分はどう思うか」を想像するために読んでも、考えさせられることがあるだろう。

またこの作品の特徴は出版形態にもある。2012年8月現在、雑誌で連載中だが、最初は書き下ろしの単行本で発売された。かつて戦後のマンガ市場が形成されつつあった時代、貸本屋の単行本で人気の出た作家の作品を、雑誌で連載するという動きがあった。これが才能を発掘し、連載マンガ家を育てる一手段となっていた。マンガ販売の主力が単行本中心になっている今、単行本で人気を計ってから連載するという方法は、再び新人育成の手法となる可能性がある。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

共闘する“守護霊”

「人は1人ぼっちじゃない」というメッセージは、小説でもドラマでも歌でも、いたるところで目にする。「1人ぼっちじゃない」の「1人」の隣にあるのは、友人であったり、恋人であったり、家族であったり——では、“守護霊”はどうだろう?

「ヤングジャンプ」(集英社)に連載中の高橋ツトムによる『ヒトヒトリフタリ』は、若くして死に霊魂となったリヨンがある男の守護霊になるところから始まる。魂となった人間たちが住まう“幽界(ゆうかい)”で、魂をどう磨いていくかを学ぶため学校生活(のようなもの)を送っていたリヨンだが、サボってばかりの彼女はある日、「現世に降りて守護霊として修行してもらう」と言い渡される。そして守護霊がついていない無数の人間から彼女がたまたま選んだのは、なんと日本の総理大臣・春日荘一郎だったのだ。

輪廻転生の思想や、修行を積んで魂を磨く(つまり“徳を積む”)という考え方は仏教の考え方そのもの。リヨンは転生するためにしぶしぶ守護霊となり春日を見守るが、ある出来事を境にただの守護霊ではなく春日と“共闘”するパートナーとなる。

あの世の人間と、現世の人間による単純なファンタジーストーリーと全く異なるのは、たとえ宗教・心霊的な部分を抜いたとしても、総理という孤独な男が残された命をどう駆け抜けていくのか・彼は人生の命題をどう叶えていくのか、という部分の細かな心理描写が読者を惹きつけて離さないからだろう。

作中では“孤独な男”の象徴として総理大臣が描かれているが、現実生活で苦境に立たされながら「自分は孤独だ」と感じている人はたくさんいるはず。また、震災、不景気、高齢化といった日々のニュースも気分を鬱々とさせるには十分で、現世の人間たちにとって、閉塞感を打ち破る存在としての春日が描かれているのではないだろうか。特に震災以後、このマンガが発表されたのは意味があるような気がする。

高橋ツトムの死生を扱った他の作品、『スカイハイ』(不慮の事故や殺人で命を落とし、霊魂になった人間が「怨みの門」で3つの選択肢から進むべき道を迫られる、というストーリー)も再読する価値がありそうだ。

『スカイハイ』は“死後”にフォーカスすることで“生”を際立たせているが、『ヒトヒトリフタリ』では死ぬまでの残された時間・生き様を描くことで徹底的に“生”を照らし出していることも興味深い。両作品において魂やあの世の存在を通して訴えかけてくるところは、今日という日をより善く生きること、そして生かされていることへの感謝だ。

人間のドロリとした黒い部分の一瞬の隙間に光を照らし、道しるべとなってくれる。『ヒトヒトリフタリ』はそんな一瞬の光のようなマンガだ。

ヒトは必ず誰かに支えられている。もしも友達がいなくても、恋人がいなくても、家族がいなくったって、もしかしたら最後には守護霊が支えてくれているのかもしれない。

kawamata
文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

藤子・F・不二雄の作風を、21世紀に継承する者

2012年は、ドラえもん誕生100年「前」の年なのだそうだ。

漫画「ドラえもん」の作者、藤子・F・不二雄の作品やメッセージを展示する「藤子・F・不二雄ミュージアム」(川崎市)は、今年9月にオープン1周年を迎えるにもかかわらず、休日は常にチケット完売という状況は変わらない。没後16年が経とうとしている今も、藤子・Fの日本一有名なマンガ家の一人としての存在感が薄くなる気配はない。

SFという語に、Science Fictionに加えて「すこし・ふしぎ」という語義を与え、「おなじみのキャラクター達の『すこし・ふしぎ』な日常」というジャンルを築いた彼は、一方で少ないページ数にセンス・オブ・ワンダーを盛り込み、読み応えのある物語として成立させる本格SF短編の名手でもあった。

石黒正数は、そうした藤子・Fの作風を、最も顕著な形で21世紀に継承しているマンガ家である。代表作『それでも町は廻っている』は、少年画報社「ヤングキングアワーズ」にて連載中の短編連作。女子高生・嵐山歩鳥とその家族や友人、彼女の暮らす下町の商店街の日常に起こるささやかな出来事がコミカルに描かれる。

コミックスの既刊は10巻を数え、2010年にはテレビアニメ化もされた本作の人気は、普遍的な絵柄、親しみやすく個性的なキャラクター、一話完結形式でしっかりと面白い物語を読ませる技術に拠るところが大きいが、それだけではない。正しく藤子・Fの二つの持ち味を融合した、伏線を張りひねってオチをつける短編スタイルと、スパイスとして挿入される「すこし・ふしぎ」なエピソードの存在が、類型的な「日常もの」と一線を画し、人気を支えている。

また、随所に現れる等身大の高校生のちょっとした不安や喜びの巧みな表現は、石黒独特の個性として光る。同時代の若者の共感を得ることは、藤子・Fらトキワ荘系作家が苦手とした部分でもあった。「すこし・ふしぎ」な物語で夢を与えつつ、現実世界に生きる若者の感情を活写できているバランス感覚もまた、『それ町』の重要な魅力になっている。

石黒は近年、作風の幅をどんどん広げている。『それ町』が気に入ったなら、『ネムルバカ』(徳間書店)、『外天楼』(講談社)などのほかの作品にも手を伸ばしてみてほしい。藤子作品における”ラーメン大好き”小池さんのような、複数の作品に自由に登場するキャラクターの存在を目にし、より石黒作品世界を楽しむことができるだろう。

文=鈴木史恵
1986年2月生まれ、千葉県出身。おもちゃメーカー勤務を経て編集・執筆業へ。マンガ好きとしての原点は物心つく以前から触れてきた手塚治虫と藤子・F・不二雄。24年組、80年代ニューウェーブ、ガロ系、それらの系譜にある青年マンガを中心に、面白そうなものは何でも読みます。マンガ以外の趣味は好きなバンドのライブや映画鑑賞など。

オリンピック開幕まであと1日 スポーツマンガのいまを考える

スポーツをテーマにしたマンガは市場でも根強い人気がある。その面白さはどこにあるのか。特に取り上げられたスポーツの経験がない読者にとっては、勝負の駆け引きや繰り出される技だけではなく、全力を出すことで現れる人間の魅力が大きいのではないだろうか。最近は選手だけではなく、監督や家族、卒業生など選手を取り巻く人物も描き、群像劇の色を強めている。

たとえば日本橋ヨヲコのバレーボールを題材にした『少女ファイト』(講談社)。主な登場人物の大石練は、小学校時代のトラウマが影響で、友人を作ることに不安を持っている。その練が、かつて自分の言葉で勇気をもらった小田切学と高校で再開し、小田切や幼なじみ、先輩や同級生との交流を通じて、徐々に人とつながることのうれしさを思い出していくのが基本的なストーリーだ。

だが人間関係の機微をうまく描く日本橋は、一人の人間の成長譚で終わらせない。男女の恋愛、友情、兄弟姉妹の関係、親子関係や先輩後輩などあらゆる人間関係を物語の中に重ね、味わい深い群像劇に仕上げている。結果、誰一人として「サブキャラクター」になっていないのだ。ほとんどの登場人物が自分なりのストーリーを持っており、あるキャラクターの抱える問題が解決することが、ほかのキャラクターの考えを変えるなど、複雑なストーリーが展開される。

根底に流れるのは、人が本能的に持っているのであろう「人から頼りにされたい」「人に必要とされたい」という思いではないだろうか。その思いが、あたかもバレーボールの球のようにキャラクターの間をいったりきたりするようにもみえる。

日本橋独特の切り絵のような力強い絵柄が、キャラクターが突き放されたり理解されなかったりするときに生じるひりひりした緊張感を強く訴える。一方で、キャラクターの表情と台詞 をちぐはぐにしたり、あえてキャラクターの思いを台詞にしなかったりすることで、読者の想像力に多くを委ねているようにもみえる。想像を通じて読者も キャラクターと同様に、人と深くかかわりたいと思っていることに気づかされるのだ。

登場人物はみな、何かがかけておりそれを埋めようとするが、そのためには一度自分のすべてをオープンにすることが必要だ。その自己開示をする場として、参加者全員が共通の目的を持ち、全力を尽くさなくてはならないスポーツは最適なのだろう。

さらには高校生ならではの「チーム内の温度差」に触れることで、キャラクター同士が理解を深めることに説得力を持たせている。「チーム内の温度差」は最近のスポーツマンガの特徴の一つともいえ、『おおきく振りかぶって』『ダイヤのA』などでも描かれている。

確かに中高生であれば、部活に参加する生徒には温度差があって当然だ。プロになる選手もいれば、体力をつけるためにはいった人もいるだろう。『スラムダンク』や『キャプテン翼』(ともに集英社)など1990年代までのスポーツマンガは、いい意味でシンプルだった。目標は優勝で、キャラクターは練習でぶつかる壁を乗り越える方法や、ライバルに勝つ方法を考えていた。

これに対し、『少女ファイト』では、卒業後も意識し、監督は勉強や生活態度も部員に意識させる。その上で目標を設定し、全員がそのために全力を発揮できるようそれぞれがかかえる事情を徐々に解決していく。この方法は、ビジネスパーソンが仕事上で プロジェクトを進めるうえでも参考になる手法ではないだろうか。

日本橋はどんな作品でも、キャラクターに寄り添い、複数のキャラクターの人間的な魅力を描き出し群像劇にまとめあげている。チーム内の温度差など現実的な側面を織り込んでいることも骨太な物語となる理由だろう。

日本橋の痛みすら感じさせる人間関係を描く世界に向き合うことで、自分の中に沈む思いを自覚したら、ぜひ『G戦場ヘブンズドア』(小学館)や『極東学園天国』『プラスチック解体高校』(ともに講談社)もぜひ読んでほしい。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

乙女は乙女に王子様を夢見る

もともと同性愛ジャンルにはあまり興味がなかった。しかし昨今の女性同士の恋愛を扱った「百合」というジャンルに一種の変化があるように思え、変化後の「新しい百合」には興味をそそられる。

変化だと思ったきっかけは、2011年まで「りぼん」に連載されていた『ブルーフレンド』というマンガだ。ソフトボール部に所属し活発な性格で友達も多い中学2年生・栗原歩(くりはら・あゆむ)と、つんけんした態度でクラスの女子からは嫌われているが、その美貌ゆえに男子からは注目の的である月島美鈴(つきしま・みすず)。この対照的な2人は、やがて友情とも愛情ともつかぬ感情に絡めとられていく。

このマンガの特徴に、百合的感情が友情の延長線上にあることが挙げられる。

百合マンガの有名な作品として『マリア様がみてる』や『ささめきこと』などが知られているが、友情が始点ではなく、愛情や憧憬がスタート地点であることから「新しい百合」とは違うものと考えられる。また、物語の読み手が成人男性であり、身体性を伴う百合作品もまた違う。

いつかの十代だった女性なら、このような経験はないだろうか。

クラスの中で女子はグループをつくり、グループ内で仲良くする。だがその中には力関係や、誰が誰に何を話したか、誰と一緒に行動したか、まるで相手を監視し束縛するような——爽やかな友情とは程遠い経験を。その中でも特に“親友”だと思っていた相手が他の女子と親しくしていると、「自分の元を去ってあの子と“親友”になってしまうのでは」という不安。それはまるで擬似的な恋人同士のようだと思う。

『ブルーフレンド』の中にも、近い描写がある。美鈴は歩を唯一の友達として心を開くが、やがてそれは束縛へと変化する。「歩はあたしのこと好きだよね!?」「嫌いになったりしないよね!?」「じゃあもう他の女の子と仲良くしないで!」という台詞の必死さは、男女のそれに置き換えても違和感がない。作者はコミックスの柱で「複雑な友情模様」と書いているが、帯には「百合マンガ」とあるように、この2つの境界線は曖昧なものだ。

では、友情の延長としての百合マンガが今なぜ認知度を上げているのか? その答えは、最近ぐいぐいとその存在が広まった男性同士の恋愛を描く「ボーイズラブ(BL)」の対をなす存在としての、百合マンガがあると思う。

女性漫画家が客体ではなく主体として百合を描けば、男性目線の性愛やファンタジーな憧憬の世界ではなく、より投影しやすく共感を呼ぶ少女の友情/愛情の曖昧な境界に着地するのは不思議ではない。

果たして「りぼん」を読む少女たちにの目に『ブルーフレンド』はどう映ったのだろう。

歩に甘えないよう距離を取ることを考える美鈴に、「あんたと一緒にいるのは私の個人的なワガママだよ」と歩は言う。まさに“自分だけをみてくれる王子様”だ。だが美鈴は歩に守られるばかりの自分を変えることを決意、2人はぶつかりながらもお互いの友情と愛情を再確認し、別々の道を歩み始める。

自分だけを見てくれる相手、守ってくれる人。そういった相手を求めるのは、どの時代でも普遍だ。だが自分が守られたい、王子様が欲しいと願うばかりでは何も手に入らない。

『ブルーフレンド』は、少女と少女の複雑な友情と愛情を通して王子様を夢見るのではなく、少女たち自身が誰かの王子様になるべきだ、と教えてくれるマンガなのだ。

kawamata
文=川俣綾加
1984年生まれ福岡県出身。フリーライター、猫飼い。岡田モフリシャス名義で「小雪の怒ってなどいない!!」を「いぬのきもち ねこのきもち WEB MAGAZINE」にて連載中。ライターとしてのジャンルは漫画、アニメ、デザインなど。冒険も恋愛もホラーもSFも雑多に好きですが最終的になんとなく落ち着くのは笑える作品。人生の書は岡田あーみん作品とCLAMP作品です。個人ブログ「自分です。

ネガティブ女子の時代

少女マンガの主人公が変化してきた。かつて多かった「明るく元気な女の子」は減り、「おとなしく自信のない女の子」を主人公にする作品が人気を集めている。背景には読者層やマンガなどとの関わり合い方の変化がありそうだ。

「ネガティブ女子」が登場するのは葉月かなえ作の『好きっていいなよ。』だ。「月刊デザート」に連載中で、今秋にはアニメ化される。

話は非常にシンプルで友人も恋人もおらず、根暗でおとなしい主人公、橘めいが学校で人気の男の子と偶然出会い、紆余曲折を経て付き合い始めるというもの。かわいくて男の子に人気のあるライバルとの対決や、女の子との友情物語を途中に盛り込みながら主人公も成長していく。

7月号では『好きっていいなよ。』の主人公が表紙を飾っていることから一定の人気があると見て良さそうだ。「別冊マーガレット」で連載中の『君に届け』の黒沼爽子もこの系列に入るだろう。

かつて少女マンガの主人公は、「明るくて友人が多く、人付き合いが上手な子」が多かった。『キャンディ・キャンディ』のキャンディから始まり、『姫ちゃんのリボン』の野々原姫子や『ときめきトゥナイト』の江藤蘭世。彼女らは、かわいらしくて皆から愛され、元気な子。どちらかというとスポーツが得意で勉強は苦手だった。それが今は、これらの作品に主人公の友人役として出てきそうなタイプの女の子が主人公になりつつある。『好きっていいなよ。』の橘めいは一人でいるのが好きという設定。「月刊デザート」で連載中の『となりの怪物くん』の主人公、雫は無愛想で人付き合いが苦手、得意なのは勉強とされている。

ここにはターゲットとなる年齢層とマンガとのかかわり方の変化があるように思える。

講談社のホームページによると、「月刊デザート」は10〜20代向けとされている。「別冊マーガレット」も中学生から高校生のティーン向けだ。マンガ研究で知られる石子順造氏は「マンガ/キッチュ」のなかで「マンガとは読者との関わり合いが強いメディア」と指摘している。かつてはこの主な読者層の女の子たちに対して、マンガを通じて「明るく元気に、人に好かれる子になりなさい」というメッセージが強く発せられていたのが、今は現実にいる等身大の女の子の姿をすくい取り、読者がより共感しやすい主人公としているのではないだろうか。読者からすると、「明るく元気な女の子」は目標にはできても共感はできなかっただろう。『好きっていいなよ。』などを読んだ30代の筆者も「中学・高校生のときにこんな恋愛や学校生活をしたかった」と思ったものだ。

確かに物語展開は、シンデレラ・コンプレックスを感じさせられる。だが『世界のシンデレラ物語』によると、グリム童話のシンデレラやその類型となるおとぎ話において、主人公のシンデレラは、自分から男女の出会いや世界への参加を求めて家から飛び出し、舞踏会や村の祭りなどに参加していくという。 特に西洋文化の影響が強い地域ではこの特徴が強いという。日本のシンデレラ物語では極度に待ちの姿勢が強調されるが、世界のシンデレラ物語では必ずしも受け身ではないのだ。

これは『好きっていいなよ。』などマンガでも共通している。マンガをよく読むと主人公らは重要なポイントで自分から友人や恋する相手に飛び込んでいく。現代の少女マンガは、おとなしい女の子を等身大で受け入れつつも、重要な場面では自分から踏み出すことの重要性を訴えているのだ。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

マンガのスピリットとは?

去る5月18日、『日々ロック』をリスペクトするロックミュージシャンが、「日々ロック」愛読者とともに、「日々ロック」愛を共感する、という“夢のイベント”「日々ロックフェスティバル」が新宿JAMで開催された。

登場したのは公募で選ばれた8組のロッカー、そして同じく誌面募集で選ばれた観客のみ。初めて来た場所で初めて会った人と初めて聴く音楽なのに初めてな気がしない、どこか懐かしさすら思わせる一体感が場を埋め尽くした。

『日々ロック』は、冴えない男子高校生、日々沼拓郎がロックに目覚め、ロックスターを目指す青春マンガ。作者は京都精華大学出身の榎屋克優(えのきやかつまさ)。

日々沼拓郎(自称:日々ロック)はライブハウスや路上での弾き語りを行うも全く人気が出ず、学校では不良にイジメられるばかりか、信じていた人間に裏切られたりと、最低の日々を送っていた。しかし、同じくイジメられっ子の二人とバンド「ザ・ロックンロール・ブラザーズ」を結成することで事態は好転していく。日々沼はエレキギターの衝撃とともにバンドという連帯感を知ることで、人間としての成長を重ねていく。ホームレスのおっさんや大好きな女の子、ライブハウスの店長らからかけられる熱い言葉たち、それがやがて音楽へと昇華するのだった。やがて彼らは文化祭ライブで伝説を作ることに・・・。

作者である榎屋の作画、構成も日々沼の演奏と歩を会わせたかのように向上していく。第2部に入る頃には、作品も安定し、当初感じられた危なっかしさはなくなる。それどころか演奏シーンでの描き文字は尋常ならざる迫力すら帯びてくる。そこには背伸びした表現やオシャレでポップな要素などない。ひとえに魂から溢れる真摯なロックンロール愛のみが綴られているのだ。

「ヤングジャンプ」で連載が始まったときのことを思い出す。絵は荒く、キャラクター設定もイマイチ、取り上げる音楽も古臭い。「女子に良いところを見せたくて…」というありきたりなシナリオ…いまどきなぜこんなマンガが出ているのか? 逆の意味で衝撃を覚えさせられる程の作品だった。実際、榎屋本人や担当編集も「死ぬほど人気がなかった…」と当時を振り返っている。

しかし、そのストレートさゆえに、ロックンロール愛、マンガ愛が読者にダイレクトに響いたとはいえないだろうか。『日々ロック』が他とは違う魅力を持ち得た理由はそこにあるはずだ。

良いマンガの条件はいくつかあるが、読み終えた後に「それをやってみたい!」と思わせられるかどうか、という点があげられるだろう。『スラムダンク』のバスケットボール、『ちはやふる』の競技かるたなど、マンガをきっかけに設定舞台がブームになった例は多い。洗練といった観点からみると『日々ロック』は良いマンガとは決していえないが、読者にリアルな能動を働きかけるという点では、先に上げた2作品と同じ系譜に入るといえるのではないか。

マンガという二次元が三次元のリアルに移行するとき、新しい作品の読み方や感じ方、そして作家と読者のコミュニケーションが生まれてくる。それは、親和性の高い他のジャンルにエンコードすることで、より多くの人とつながっていく現象——同人誌やニコニコ動画での二次創作のような——に似ている。ジャンルやメディアという垣根を超えるとき、マンガの可能性がまたひとつ、広がっていく。

ohta
文=凹田カズナリ
街の文化を支える書店チェーンで勤務。平和台→早稲田→五反田店でコミック担当を歴任。現場で仕入れた知識を広めるべくマンガナイトにも参画。2011年~「このマンガがすごい!」「このマンガを読め」にもアンケートを寄稿。日本橋ヨヲコ、鶴田謙二、長田悠幸、阿部共実、きくち正太、山田穣、谷川史子、堀井貴介、沙村広明、松本藍、篠房六郎(敬称略・順不同)を筆頭にオールジャンル好きな漫画多数。

関係の深化が進む同人誌と商業誌

マンガ業界で商業誌の登竜門のひとつとなってきた同人誌業界。その同人誌文化が商業誌の中で存在感を高めている。マンガの歴史を見れば、「次のマンガの担い手」は常にその時代のマンガ文化の周辺から生まれてきた。同人誌市場と商業誌市場の関係の深化が進む現状はマンガ市場の活性化につながるかもしれない。

私が最近見つけた深化の一例が、「ジャンプ・スクエア」(集英社)で連載中の『放課後の王子様』。「週刊少年ジャンプ」で連載していた(現在は「ジャンプ・スクエア」で連載中)『テニスの王子様』を元にしたギャグマンガだ。

中身はテニスの王子様の主人公、越前リョーマら登場人物の日常を描いた4コママンガ。本編の『テニスの王子様』ではかっこよく描かれているリョーマらが、学校生活や練習で手塚国光部長らとバカをやったり、ライバル校の氷帝学園主将、跡部景吾がお金を使ってとんでもないことをやったりする。絵柄も本編のスタイリッシュな線ではなく、ギャグマンガのように造形がやや崩れ、線も少なくなっている。ちなみにテニスの試合(通常・超人版)はほとんどしない。本編のファンの中には「イメージが崩れる」と反発する人もいるだろうが、私が初めてこれを読んだときは、おもしろいと思うと同時に「これってコミックマーケットなど同人即売会で売られる二次創作でないの?」と思った。(もちろん作者の許斐剛が原案・監修となっていて、集英社から出ているので「公認」のはず)

もともと『テニスの王子様』でも試合のあとに主人公のリョーマが所属する青春学園のメンバーと、ライバル校の選手が一緒に焼き肉を食べに行ったり海辺ですいか割りをしたりなどのエピソードがあったので、作者も試合や練習以外を描くことが嫌いではないのだと思う。『放課後の王子様』の作者、佐倉ケンイチも 本編を読み込んでいるようで、キャラクターの性格などにも齟齬はない。

『放課後の王子様』がやっている、「本編で出てこないことやその関係を妄想してマンガ(や小説)にする」こと。私はこの行為は、同人誌市場で育ってきたものだろうと思う。また、物語性の高い作品からキャラクターだけを取り出して4コママンガにすることは、ゲーム「ドラゴンクエスト」を元にした4コママンガなどマンガ史の中でも伝統的な行為だ。物語に登場するキャラクターが強いからこそできることでもある。

もちろん本来の意味での創作の同人誌も活況だ。よしながふみら同人誌出身のマンガ家も数多く活躍している。同人誌即売会のコミティアは100回目を迎え、商業誌で活躍するマンガ家も出展。二次創作をしながらオリジナルのイラストなどを描く人も多い。

同人誌市場は確かに商業出版から見れば異端であり傍流だ。しかし松岡正剛をして「文豪」といわしめた手塚治虫など今の日本のマンガ市場を作り上げた人々は、当時のマンガ業界では傍流だった大阪の「赤本」から登場した。同人誌と商業誌の関係の深化は、傍流だった同人誌文化が力を持ち始めた証左といえるのではないか。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

歴史マンガ隆盛の示す、時代の閉塞感

歴史を題材にしたマンガの人気が高まっている。今年のマンガ大賞の第3位は『信長協奏曲』。出版社を超えた共同販売促進活動も行われている。一方で、科学が今よりも発展した未来の世界を描く骨太のSFマンガは勢いのある作品が少ない。閉塞感の強い社会を反映しているのではないだろうか。

『信長協奏曲』は「月刊少年サンデー」(小学館)で連載中の歴史マンガ。現代の高校生が戦国時代にタイムトリップし、体が弱いという設定の織田信長と入れ替わって天下統一を目指すというストーリー。織田信長が当時の人間としてはとっぴな行動が多かった理由を、現代人だったという設定にしているところがおもしろく、かつこれまであまり見られなかった設定だ。(これまでのタイムトリップものは未来の人間が過去に別の人格として生きたり、入れ替わって別の人生を歩もうとしていた)織田信長や戦国時代を題材にしたマンガはすでにたくさんある。だがこの作品の連載が始まったときは「ああ、まだこの手があったか」と驚くと同時にうれしかった。少女マンガの雰囲気を漂わせる絵柄が、戦国時代の血なまぐさい雰囲気を和らげているところも読みやすさの一因だ。もちろん結末には史実という制約があるものの、ほかの戦国武将との戦い、羽柴秀吉との戦い、本能寺の変など、今後の展開というより史実をどう描くのかが楽しみで仕方がない。

今マンガ市場では歴史マンガに勢いがある。小学館やエンターブレインなど4出版社は合同で4月末から「ヒストリカルコミックフェア」を実施。『信長協奏曲』をはじめ『ドリフターズ』『乙嫁語り』などを取り上げている。

一方で歴史とは逆の時間軸を描くSFマンガは精彩を欠く。科学を題材にしたマンガは多いものの、「科学の力で明るい未来が待っている」というSFマンガが少なく、「閉塞感がある」(都内で働く書店員)と指摘する声もある。

日本マンガの歴史の中では、かつてSFマンガが主役となった時代があった。1960〜70年代、手塚治虫や藤子・F・不二雄は特に子ども向けマンガで、科学による明るい 未来の実現を描き、鉄腕アトムやドラえもんを生み出した。当時は現実社会が科学の力で大きく発展。新幹線の開通、大阪での日本万国博覧会の開催など「科学に基づく技術が人々の生活を豊かにする」と素直に信じることができた。

翻って現代では、科学に基づく技術が必ずしも人々の生活を豊かにするわけではなく、逆に人の命を脅かすこともありうることが明らかになっている。そのなかでは科学が明るい未来をもたらすと一方的には描きにくい。

科学の研究が進みすぎたがゆえのジレンマもある。当時は科学の発展の余地が大きかったがゆえに、マンガ家が最新の研究成果をもとに自由に想像力をはたらかせ「このような未来になるかもしれない」と描くことができた。科学の研究が進み、生活に身近になった現代では、今の科学や技術水準を元にどのような未来が実現するかシミュレーションができてしまう。マンガの世界にリアリティが求められるようになったことも影響しているだろう。そのため想像力を過去=歴史に向かって使うマンガ家が増えたのではないだろうか。結果が確実な科学よりも、人間の行動が左右する過去の世界の方が想像力をはたらかせ、マンガ的なおもしろさを描きやすいのかもしれ ない。

歴史好きとしては、歴史を扱うマンガが増えるのはうれしい。だが本来娯楽であるはずのマンガで、明るい未来や世界が見られなくなるのは寂しい気もする。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。

「修斗」を通していまの若者像に迫る、格闘マンガ

一人の人間が生み出すマンガは、しばしばその時代を切り取ったり反映したりすることがある。特に物語の中心となる主人公は、各マンガ家が思い入れを持って自分なりの人物像を作ろうとする一方、そのときどきの読者が共感しやすい性格となることが多い。マンガの読者の若者が無理なく共感できる主人公となるのだ。

たとえば格闘技マンガ『オールラウンダー廻』。主人公の廻は高校生。美術部に所属しているが、「世の中が不況なので何か打ち込めるものがないとヤバい」「小学校の頃だけ空手をやっていた」との理由で、総合格闘技「修斗」を始めた。

修斗は「打・投・極」をコンセプトにした現実に存在するプロ化している格闘技。アマチュア修斗に入門した廻は、「今は楽しくやれていればいい」と思いながら、半年後にはアマチュア修斗ライト級に勧められるがままに参戦。その後は、プロ修斗の練習にも参加して、プロを目指すこととはどういうことかを考え始める。

このマンガのおもしろさは、主人公の「低温状態」だ。これまでの格闘技マンガの主人公は熱血漢だったり格闘技への情熱を持っていたりした。1993年〜2003年まで連載され、今も続編が描かれている「高校鉄拳伝タフ」の主人公キー坊は、灘神影流活殺術の第15代目継承者として世界最強の選手になって自分なりの灘神影流を作り上げるという目標を掲げている。

これに対し、廻はプロを目指しているわけでもないし、周囲の人間や読者を魅了する華麗な得意技も持たない。格闘技を選択する必然性も勝利へのこだわりもないのだ。廻は次第に修斗にはまっていくが、そのはまり方も気負いがない。他人から指摘されて、格闘技が好きということに気付き、勝利して初めて勝つことも良いものだと思う。目標も常に手の届くところにあるもののみで、大きな目標は抱かない。

廻の受け身な性格と無理のない動機は、「追いつき追い越せ」が至上命題だった団塊世代やバブル世代には物足りないかもしれない。だが、これは今の若者像に非常に近い。修斗を楽しみながら、小さな目標や満足を見出し、その世界にいることの幸せに気づく。ある世界に自分の居場所を見つけていき、着実に成長して次のステージに進んでいく姿こそ、現代の若者が目標とするものなのだろう。現実世界でも廻のような若者を、「気合が足りない」と退けるのではなく、これまでとは違う目標を持っているのだと理解する必要があるようだ。

文=山内康裕
1979年生。法政大学イノベーションマネジメント研究科修了(MBA in accounting)。 2009年、マンガを介したコミュニケーションを生み出すユニット「マンガナイト」を結成し代表を務める。 イベント・ワークショップ・デザイン・執筆・選書(「このマンガがすごい!」等)を手がける。 また、2010年にはマンガ関連の企画会社「レインボーバード合同会社」を設立し、“マンガ”を軸に施設・展示・販促・商品等のコンテンツプロデュース・キュレーション・プランニング業務等を提供している。 主な実績は「立川まんがぱーく」「東京ワンピースタワー」「池袋シネマチ祭2014」「日本財団これも学習マンガだ!」「アニメorange展」等。 「さいとう・たかを劇画文化財団」理事、「国際文化都市整備機構」監事も務める。共著に『『ONE PIECE』に学ぶ最強ビジネスチームの作り方(集英社)』、『人生と勉強に効く学べるマンガ100冊(文藝春秋)』等。

「誰」のために「何」を選んだのか?

マンガランキングを考える『外天楼』『ブラック・ジャック創作秘話』『花のズボラ飯』『I(アイ)』これらのマンガのうち2011年末~12年初めに発表されたランキングで「1位」になった作品はどれだかわかるだろうか。答えは全部。市場の拡大を受け、マンガのランキングは純粋な売り上げランキングから書店員による投票ランキングまで相次ぎ登場している。コンテンツを選ぶための手段が、コンテンツになるという、まさにループ状態。

どのランキングをどう読み解くかが、読者に問われている。

背景にあるのはマンガ市場に関わる人の増加だ。「右手にジャーナル左手にマガジン」世代が50代となり、今や組織の決定権を持つ。週刊少年ジャンプが600万部超の販売を達成した黄金時代にリアルタイムで読んでいた人は20~30代となり、書店員や編集者としてマンガ発行の最前線にいる。だからこそ、全国の書店員3,000人にアンケート用紙を配布する「オトナファミ」のランキングも可能になった。また夏目房之介氏など評論家が仕事として確立し始めることで、フリースタイル発行のムック本「フリースタイル」に掲載される「THE BEST MANGA2012」のように評論家の投票が多いランキングも成立。大人もマンガを読むことが当たり前になった結果、宝島社発行の『このマンガがすごい!』には芸能人ら各業界のマンガ好きがコメントを寄せる。

この現状に対してひとつの答えを示したのが、NPO法人ツブヤ大学が2月中旬に開催したManGa講座「マンガランキングを考える」。実際にマンガランキングに投票しているあゆみBOOKS早稲田店のコミックス担当太田和成氏、往来堂書店のコミックス担当の三木雄太氏、マンガを介したコミュニケーションを促すイベントを主催するユニット「マンガナイト」の代表、山内康裕氏らが登壇し、「使えるランキングの読み方」を解説した。講座の中で明らかになったのは、書店員や評論家の投票には、「今なぜこれを薦めるのか」という思いが大きいうえ、ランキングが掲載されるメディアから読者層を想定している。株式会社ファンクショナル・アプローチ研究所の代表を務める横田尚哉さんは問題解決において「誰のために、何のために」を重視している。同様に、マンガランキングでも、それぞれのランキングが、どのようなマンガ読みに対して何のために作られたのかを、選者などから読み取る必要がある。マンガは本来人によってとらえ方が違うため投票した人の感想なども読み応えがある。

最近はツイッターを使った一個人による投票、フェイスブックアプリ「MangafulDays(マンガフルデイズ)」を使った個人ランキングも簡単に作れるようになっている。マンガランキングの世界は一段の広がりが期待できそうだ。

ツブヤ大学ManGa講座「マンガランキングを考える」(2月10日にUstreamで行われた講義より)

Broadcast live streaming video on Ustream

MangafulDays
「MangafulDays」はマンガに特化したSNS。Facebookと連携、実社会の友人・知人とマンガを通じてコミュニケーションできる。「生涯最高傑作マンガMyBest5」「今注目しているマンガMyBest5」等の「MyBest5」を登録できるのが特徴。「あの場面のセリフが感動!」といったやりとりで、すでに多くのユーザーが参加している。

文=bookish
1981年生まれ。「ドラえもん」「ブラック・ジャック」から「週刊少年ジャンプ」へと順当なまんが道を邁進。途中で「りぼん」「なかよし」「マーガレット」も加わりました。主食はいまでも少年マンガですが、おもしろければどんなジャンルも読むので常におもしろい作品を募集。歴史や壮大な物語をベースにしたマンガが好み。マンガ評論を勉強中。マンガナイト内では「STUDIOVOICE」のコラムなど書き物担当になっています。マンガ以外の趣味は、読書に舞台鑑賞。最近はサイクリングも。