少女マンガは社会的な課題と接続していないのだろうか

前回の論評で「少女マンガの華は今も昔も恋愛である」と書いた。その内容を否定するわけではない。しかし、魅力的な華が故に生まれる誤解もある。それは少女マンガが恋愛ばかりを扱い、環境問題や原発問題、経済格差など、社会的な課題と接続していないのではないかという指摘だ。この批判、そのまま少女マンガは幼稚だと言われているような気分になりとても不快なのだが、それに対し、少女マンガらしさを失うことなく、社会的な課題を扱っているマンガを提示してカウンターを与えられたらと思い筆をとった。紹介するのは岩本ナオ『雨無村役場産業課兼観光係』である。

この作品初出は2007年と決して新しくはない。しかし、近年顕著になってきている過疎化、少子高齢化、地方移住といった問題を全て引き受ける内容になっている。主人公・銀一郎は東京の大学を出た後、少しでも地元の役に立ちたいと故郷の村役場に就職を決める。付き合っていた彼女は田舎暮らしを嫌い、就職とともに関係を終わらせる。

物語は銀一郎と幼馴染みのメグ、後輩の澄緒の三人を中心にまわる。「ここじゃ16でデキ婚で高校中退のウチの弟みたいなののほうが喜ばれるぐらいだし」とはメグの台詞。彼女は20歳そこそこであるのにも関わらず、自分の体型を気にして、結婚相手の心配をしているのだ。銀一郎は、晩婚化が進み、「おひとり様」も珍しくない都会とは異なった、田舎の洗礼を帰省早々受けることになる。

いざ初登庁してみても、近所で捕れたヌートリアの尻尾を数えることが仕事だったり、大型スーパーの誘致に失敗して村長が落ち込んでいたりと、理想の職場とはかけ離れた状況に置かれる。予算も少なく、若者もおらず、主だった産業もない…、雨無村は日本中どこにでもある田舎の村だ。銀一郎はそんな状況でも前を向き、経験を積みつつ、村を活性化させ、地域を維持するためのアイデアを練っていく。

Uターン就職を決めた銀一郎は、彼女との別れや役場での仕事から本当に自分の選んだ道が正しいのか悩む。そんな悩みを忘れさせてくれるのが、将来のことを考えずになんとなくフリーターをしている澄緒とアイドルの追っかけをしながらも将来を悲観する幼馴染みのメグとの他愛もないやり取りである。当然、少女マンガの定石を外さず、この三人の関係には恋愛が織り込まれていく。

近年、地方への移住を考える若者が増えてきている。しかし、実行の障壁となっているのが、雇用機会の少なさと、地方独特の面倒くささ、特に人間関係だ。求人に関しては全員が銀一郎のように役場の職員とはいかなくとも、選ばなければ介護系を中心にあるし、IT系のエンジニアなどは都会に居なくとも仕事をこなせるので、移住を決断する例も多い。かえって地域を維持するための若い働き手は、田舎において非常に重宝される。一方、地方独特の面倒くささについてはこれといって論じられる事が無い。あっという間に噂が広まったり、陰口を叩かれたり、村八分にされたりと地縁が無い物にとって地方暮らしに踏み出す恐怖心は意外に強い。

では、どうすれば良いのか。「地域存続の危機」と既存住民を煽って新規転入者に寛容になれと言うのか。転入者に、この土地の習慣だから辛抱してくれと言うのか。どちらも簡単に進むわけではないが、移り住む人たちが安定して暮らし続ける事ができる環境を、従来の住民と一緒に作っていくための努力は必要だろう。そうした状況を意識し、最近は移住者と従来からの住民の間を取り持ち、住居や農作業の世話をする「定住コーディネーター」を置いている自治体も珍しくなくなってきている。

さて、銀一郎が仕事をする中で、地域活性化のネタとして目を付けたのは、村の山に生える巨大な桜である。この桜を中心に祭りを企画すれば、観光客を集める事ができるし、村全体が結束するのではと考えたのである。確かに地域における具体的な目標を共にするというのは、コミュニティの醸成に大きな効果が期待できる。それは桜祭りのようなイベントを村あげて開催することであったり、地域の特産品を使って新たな商品を作り出したりと、何もせずに縮小や衰退を嘆いたり仕方なく受け入れるだけではなく、具体的な行動に移すことである。

ただ、コミュニティの活性化において配慮してならなければいけないポイントがある。それは地域活性化の取り組みは成長し続けることが求められるものではないということだ。企業活動に携わると、必ず成果として前年以上の数字が求められる。常に業績は右肩上がりであるべきだという経営のルールがそこにはあるのだ。しかし、地域においてのイベントや特産品は、常勝を目指していては成り立たない。近隣のライバルも幸せにならなければ、広域で見た時に地域全体が活性化しないからである。

社会学の巨人、タルコット・パーソンズは成長、成功や利益を目的とした、手段としての行動を「インスツルメンツ・アクティヴィスム」とし、一方、行動自体に満足を覚える、自己充足のための行動を「コンサマトリー・アクティヴィスム」とした。経営戦略や受験勉強といったインスツルメンツ・アクティヴィスムは「売上高」や「偏差値」といった一定以上の成果を得るために行われる。そして、活動の目標となる数値は次第に高まっていく。一方、働くことそのものから得られる満足や、勉強すること自体が好きで、何かが分かることによって得られる満足にモチベートされて行われるのがコンサマトリー・アクティヴィスムというのだ。前者が一定の目的を達成すれば完結したり、さらなる目標の再生産を行ったりするのに対し、後者はライフワークとして行われることが多く、明確なハードルやゴールがない。

実際、地域において振興のためのアイデアを出し、住民の活動を促進していく立場(本作では銀一郎)においても、前年以上の成果が求められるのは非常につらいし、小さな村がコミュニティとして割ける労力やコスト、ファシリティには限界がある。作中にも桜祭りに予想以上の来客があり、駐車場が足りなくなるなど、そうした細かい問題が描かれている。地域おこしは、観光客や消費者といった外部の人の高評価を得るという面が重視されがちだが、当事者の負担やそれに伴う持続性の担保を考慮すればインスツルメンタル・アクティヴィスムの枠組みで解釈される活動ではなく、身の丈で手作り感を失わず、活動そのものによって関係者の自己充足心が満たされるコンサマトリー・アクティヴィスムの枠内で評価されるべき対象なのではないだろうか。

現代の日本においては依然、経済最優先で右肩上がりを前提にいろいろな物事を考える習慣が残されている。企業の業績や日本の国際競争力、基礎学力の向上など、数値の積み上げが評価される分野ではそういった評価が有効となる。一方、人口減少や過疎化、高齢化、貧困格差などをその論理でとらえようとすると、どうもしっくりこないのである。役所が行う公共サービスや住民が主体となった地域活性化においては、いかに負担無く持続できるか、そしてその活動自体から関係者が満足感を得るかという事が重要になるからだ。私は決してインスツルメンタル・アクティヴィスムを否定しているわけではない。そのものさしでは評価しきれないコンサマトリー・アクティヴィスムの存在を意識するだけで、今までとらえきれなかった物事について語り合うことが出来るのでは、と考えているのだ。

あぁ、スッキリした。

少女マンガの華は今も昔も恋愛である。確かに、主人公中心の小さな世界で、恋愛成就をゴールとして、流行の要素を取り入れるために社会情勢を利用する…そんな作品も無いわけではないが、それをもって「少女マンガ=幼稚」と決めつけるのはあまりにも短絡だ。社会に起こる多様な問題に挑み、その中にそっと恋愛を置く。そうした、少女マンガだからこそたどれる社会問題への接続方法があるのだから。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。東京に妻子を残して単身みちのく生活。自由にマンガが買えると思いきや、品揃えが良い書店が近所に無いのが目下の悩み。研究論文も書かなきゃね。